日本で山の稜線を見ていてこういう連想が起ることは、まずありません。韓国の山の稜線の樹木を遠望しながら、僕はほかにもいろいろなことを考えるのですが、そのうちの一つを、きょうの話のしめくくりになるかどうかはわかりませんが、披露してみました。韓国、朝鮮半島に生まれ育った人々は、そういう山の稜線、その樹木を、ずっと見ながら、生きてきているのだと思います。
以上で、今日話そうと考えて用意してきた分は終わりですが、きのう見た「アルン展」の事にひとこと、ふたこと触れておこうと思います。 展覧会をひとわたり見て感じたのは、普通の意味での絵画作品ばかりでなく、色々なタイプの作品が、インスタレーションなんかも含めて、出品されているということです。 その意味で、多様だなと思いました。 それと同時に、しかしやはり絵画、それも「かたち」にこだわった絵画といいますか、「かたち」を中心に制作されて成立している絵画が多い、という印象もうけました。 単純に「具象」ということではないとおもいますが、とにかく「かたち」に依る作品が多い訳です。 それと、それらの作品の「質」のことですが、はっきり申し上げて、質の高いものと、質的にそんなに高度でないものと、結構混ざっているという感じがしました。 全般的にそんな印象だったのです。
それでなのですが、昨日、「アルン展」を見た後、夜にウズベキスタンの朝鮮族の画家シン・スンナムのドキュメンタリー映画「空色の故郷」を見させてもらいました。 それを作った女性監督キム・ソヨンさんが今回、京都にいらっしゃって、映画上映後、舞台でご挨拶なさいました。 そのお話の中に、印象的な言葉が一つありました。 「モリ(頭)でなくてカスム(心)」だ、というものです。 すなわち、彼女がこの朝鮮族の画家についていちばん打たれたのは、彼は「モリではなくてカスムだ」という、そういう生き方をしてきた点なのだ、という話をなさったのです。 だから、彼女もそういうような映画を作りたかったのだ、そういう話をなさったのでした。 彼女のその言葉、発言から連想して、考えたのですが、たとえば絵画で「かたち」を描くとして、そのときにその絵、そこに描かれた「かたち」が見る人を納得させるというのは、結局のところ、やはり「モリでなくてカスムだ」ということがその絵のなかにちゃんとあらわれている場合だろう。 つまり、こういう必然性、こういう心があるから、この「かたち」を描くのだという、そういうことが一番大切なのだということなのです。 それがあればいい。 それがないとだめだ、とおもうのです。 いま21世紀に入りましたが、僕たちは、20世紀を経るあいだに、絵画の様式としておよそ考えられるほとんどのものを体験してきました。 その結果、現在では、良い意味でも悪い意味でも、「なんでもあり」の時代をむかえています。 今は、絵画表現をする場合に、様式としてはどんな様式を用いてもかなわない。 抽象でも具象でも、なんでもいいのです。 ただ、問題は「モリ」でなく「カスム」だ。 どんな方法、どんな様式だろうとかまわない。 たとえば「かたち」を使うなら、それでもいいが、しかしそこに表現者の必然性が「カスム」として、「こころ」としてあれば、それは見る人に訴えかける力を持つのだと、そう思うのです。
そう言うと、それは今までもあったことで、特別の事ではないと思われるかもしれません。 それは、そうです。 しかし、現在ではそのことは、実は、人が思うほど容易に実現できる事ではない、という気がします。 「カスム」は行き始めることができる。 だがそれは、すでに、そんなに簡単なことではなくなっている。
そんな訳で、日本にいる在日韓国・朝鮮の方々も、いまいちど自分たちの中で「かたち」を使うことに関して「カスム」必然性があるかどうかということを、自分自身にたいして問いかける、問いかけ直してみることがいいのではないか。
そういう問いかけが、また、ひとつの表現たりうるのではないか。 そんなふうに思いました。
もう一つ思ったことがあります。 村上春樹という文学者は、いろいろな小説の試みをしています。 小説というのは、物語を軸に展開していく、という芸術です。 そこが絵画と違うところで、小説は、とにかく筋(物語)が一応読む人に理解できるように展開していかないと作品として成り立たない、そういう芸術です。 つまり、単純にいうと、抽象絵画のような小説はありえない、というか、小説は抽象絵画のようではありえない、わけです。 そうであるとして、いかに村上春樹の小説は僕たちがこれまで考えてきた「物語」とはちょっと違う。 ちょっとずれている「物語」です。「寓話」のようになるというかたちでずれていたり、あえて絵画との連想で言えば「アンフォルメル絵画」のような感じになるというかたちでずれていたり、するのです。 とにかく、僕たちが今まで「物語」とみなしてきたものとは違う「物語」のありかたを感じさせてくれる、という気がします。 そこで村上春樹の小説の世界でやっていることは、ジャンルは全く異なるのですが、絵画の世界に置き換えてみたら、いろいろな示俊に富む試みではないか、という感じがするのです。
昨日「アルン展」で、僕は、あるものを表現するのに、そのものの「かたち」を直接的に描くという例を見ていて、これでは現実感、リアリティーがないのじゃないいのかと感じました。 たとえばある残酷な場面、あるいはそれとは逆の美しい場面、それらの場面をそのまま、ストレートに表現した絵に、なぜか僕たちはもうリアリティーを感じない、そんな状況に僕たちは置かれているのではなうでしょうか。 そういうとき、では、どんな表現が可能なのか。 どんな表現ならリアリティーを表現できるか。
自分が心で感じていることを絵に「かたち」でもって表現するとして、ある種の、何らかの「間接化」をほどこす、そうやったら出来るのじゃないだろうか。 あるいは、そうやらないと出来ないのじゃないだろうか。 「間接化」だというところまで表現をもていく、あるいはそこまで表現者が行く、そうでないと、もう表現というのは成り立たないのではないだろうか。 そんな風に感じます。
村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』という、阪神淡路大震災の余波の中で書かれた連作小説集のなかに「アイロンのある風景」という一扁があります。 そこに、自分が生まれ育った所とは全然違う所、ある海辺へやてきて絵を描いている「三宅さん」という人物が出てきます。 この三宅さんが、どんな絵を描いているのか聞かれて、部屋の中にアイロンが置いてある、それだけの絵なのだが、説明するのがむずかしい、というのです。 なぜ難しいかというと、三宅さんという画家にとって「それが実はアイロンではないからや」、というのです。 すると、その質問をした女性が「つまりそれは何かの身代わりなのね?」。「たぶんな」。「そしてそれは何かを身代わりにしてしか描けないことなのね?」。
そういう場面があります。 「間接化」というのは、たとえばそういうようなことです。 僕たちは、今、幸か不幸か、表現についてそんなふうなことを求めているのではないか、そうおもうのです。
以上です。