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針生一郎 美術評論家 |
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曹良奎、チョリャンギュについて、いま関心が日本だけでなく、韓国でも非常に、高まっております。先週JAALA(日本アジア、アフリカ、ラテンアメリカ美術家会議)が、韓国の民衆芸術運動と提携して「北東アジアと第三世界」という展覧会をソウル美術館で開きまして、私はそのオープニングとシンポジウムに参加してきたのですが、そこでも、日韓の交流の、そして韓国美術に大きな影響を与えた先輩として曹良奎のことが韓国の報告者によって語られました。
それから8月には、来年開かれる第3回光州ビエンナーレの「芸術と人権」という特別
展示の責任者として、光州で記者会見などを行ったのですが、光州蜂起事件をどういう風に取り上げるのかという事と同時に、曹良奎についての質問が私に集中しました。
北の共和国に帰ってから一度だけ曹君が私に手紙をくれました。そこに同封されていた作品の写
真を回覧します。これは、後で紹介しますが、「仮面を取れ」という作品と同じテーマで描かれた物です。(「仮面
を取れ」−4・18李承晩政権を倒した学生蜂起を、日本にいて最後の時期に60年安保闘争の経験と絡めて描いた作品)共和国に行って、朝鮮の民衆の顔や姿を観察しながら描き直したという事です。これを回覧しながら、話を聞いてください。
私は彼と親しかっただけではなく、曹良奎という朝鮮人作家が日本にいたのは、12〜3年だけであるが、その12〜3年の彼の作品を除くと日本の戦後美術史は重要な一角を欠く事になる、たいへん重要な位
置を占める作家だと思っております。
彼は1945年、17歳で晋州の、師範学校在学中に、日本の敗戦による解放を迎えました。それから朝鮮戦争になりまして、朝鮮南労働党に入りましたが、李承晩政権の弾圧が非常に厳しいなかで、ある種の挫折感などもあったと思うのですが、密航してきました。たいてい、大村収容所に捕らえられ、強制送還されるのですが、彼一人が、奇跡のように捕まらずに、東京まで来て深川の枝川町朝鮮人部落に逃げ込んでそこで生活をした。武蔵野美術大学を中退し、1952年くらいからデッサンをたくさん描いて美術家として活動を始めるわけです。
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1952年「避難民」
彼が密航し逃亡する前に目撃した朝鮮戦争のさなかの避難する群集の姿を描いたものです。
「枝川町朝鮮人部落A」
私も一度訪ねたことがあるのですが、掘っ建て小屋みたいなバラックが並んでいる部落でありました。
「枝川町朝鮮人部落B」
日本美術会のアンデパンダン展に出品されています。これが日本の展覧会に出した最初です。
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「枝川町朝鮮人部落A」
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1952年「朝鮮に平和を!」
アンデパンダン展に出品されたものです。ちょっと、アジプロ絵画のような説明的なものが過剰ですが、朝鮮戦争がやっと終わりかけた時に、家族を失ったりした悲しみに暮れている親子を描かずにはいられなかったんだと思います。
「廃屋」
この作品にはすでに彼の特徴である強靭なマチエールが見られる。 廃屋はいたるところにあったわけだが、強力で、迫力があるマチエールで語る。
「うさぎ」
うさぎを捕らえて、料理するため、まないたの上に載せている光景。 朝鮮戦争を契機として、アメリカ軍の特需物資を日本が調達したことによって、経済復興を成し遂げ、高度成長がはじまる時期。
そういう時期、彼はむしろ野性につながるというか、動物を獲物として捕らえて、エサとして食べようという光景を描きたかったのだと思う。
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「朝鮮に平和を!」
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「牧童」
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1954年「牧童」アンデパンダン展出品
郷愁にかられて、朝鮮の村で、動物と少年が密着して生活している光景を描きたかったんだと思う。
まだ、自分の方向を模索している過程だが、それでも多くの日本人作家と違うのは軍国主義・ファシズム・戦争の時代が終わって表現の自由、制作の自由がもたらされた。
何も、訴えるべきメッセージが無いのにともかく絵を描いて美術家になりたいというのが日本の若い世代の大半だった。
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かつては文士になったり、芸術家になる事は親に勘当されるような、世捨て人になることでしたけど、戦後のこのあたりから芸術大学や大学の文学部に入るときは親もついてくる。文士や画家もあたれば有利な職業だという時代になってきた。
そういう時代に彼は自分のルーツ・根源をさぐって、そこから自分を解放していかなければ、その解放の過程がメッセージなんだと信じていた。
プサンから脱出する前、政治運動で、ある挫折感があって単にアジプロ的な政治的なイデオロギーを作品にそのまま押し付けるような作品じゃ駄
目なんだと痛感していたんだと思う。そこが他の作家と違う所なんですね。
私が彼を知ったのは彼が自由美術に出品し注目されていた1954年頃。彼は自由美術の前身である新人画会に出していた靉光ですとか松本竣介とか鶴岡政男などに傾倒していた。 |
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55年、「新具象」というグループを私が提唱してつくった。
今朝ある新聞社から電話がきて、ビュッフェが自殺したので、追悼文を書けといわれた。
サロン・ド・メ日本展1952年に開かれた時、まさに実存主義の思想を絵画で表現したようだと思ったが。オム・テモアン(目撃者)というグループの中で、一番はじめに通
俗化して興味を失ってしまったので書けないと断った。
サロン・ド・メの中でロルジュ、ミノー、ビュッフェというようなオム・テモアン・グループに関心があった。もっとも「新具象」には、自然主義から出発して新しい具象をめざす人々も入っていた。
西洋の遠近法リアリズムと接触して以来、アジアの美術には西洋の模倣ではない独自のリアリズムを確立するという課題が共通
にあった。
しかも日本が遠近法に接したのは、印象派が入ってきたのとほぼ同時で、印象派というのは、19世紀までのリアリズムが崩壊する端緒で、目に見える物を、目に見えるとうりに描いても現実は捉えられない。印象派は、当時の光学理論にしたがって、原色を織物のようにちりばめて描いた。これはある意味ではリアリズムの否定のように思えるが、私は内的なリアリズムというか想像力としてのリアリズムの発端であったと思う。この自然と結合した現実を全体として捉えるリアリズムとは西洋美術にとっても20世紀の一貫した課題でありアジアの美術ではさらにそれは共通
の課題であった。
そのリアリズムの追求に結びつかなければモダニズムもアバンギャルドもほとんど意味が無い、という風に考えているのでそういう角度で当時は安部公房、花田清輝などが言い出したんだがシュールドキュメンタリー、シュルレアリズムを批判的な媒介としながらドキュメンタリーの方向へ徹底するリアリズムがニッポン展(青年美術家連合と前衛美術会共催 曹良奎は不出品)の共通
の関心でそれと当時私が公募団体のなかでもっとも親近感をもっていた自由美術から同世代の作家達を選んで「新具象」というグループを組織した。
安部公房夫人安部眞知、小山田二郎夫人小山田チカエ、曹良奎、中本達也、中野淳が、自由美術に出していて、安部をのぞくと自然主義から出発した人々、阿部眞知は池田龍男、福田恒太、山野卓とともに「夜の会」「世紀の会」に出ていたので、シュルレアリスムを経てきた人々の二種類であった。このグループは一月一回くらい研究会をもち、曹良奎が瀧口修造の企画でタケミヤ画廊で個展をやったのが最初なんですが、55年以降、おなじ会場で、2回くらい「新具象」のグループ展をやりました。私としては、曹君の作品を見なければ、そういう発想を抱かなかったと思う。
彼は、植民地統治下で習得したたいへん流暢な日本語で、論争の場においては自説を曲げることが無く、メンバーからはいやがられたりもしたが、私はそこに惹かれた。 |
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「人足と倉庫」
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「人足と倉庫」アンデパンダン展出品
枝川町には倉庫が多く、彼はよくアルバイトで倉庫番をした。その体験もあるが、曹君が自然主義を基礎にしながらかなり方法的に画面
を構築して、自分の主題を説得するための構築という風に進んでいったのがこの倉庫シリーズです。
さっきの「廃屋」なんかもそうですが、彼はいたるところに「壁」というものを感じたと思うんです。それは国境の壁でもあるし、独占資本主義がすでに成熟しつつある時代の階級、「戦後日本には階級なんてものは無い」と言われてますが、実はすべて金次第ということであって、貧者と富者の階級落差はさらに広がっている訳です。
この絵を見ると、倉庫番が倉庫の前で昼寝している。倉庫がのしかかるように、ちょっと開いてるところから闇も含めてこの労働者にのしかかるようにせまってきます。しかしこの眠っている人足は、いわば自ら物理的なエネルギーと化してこののしかかってくる壁の力、圧力に挑みかかっていく逆過程がここには潜在している。倉庫の扉があって、Aという文字が書かれていて、そこと、労働者が昼寝している所の間には見えない断絶があり、それをどう越えるかということは、見るほうの想像力にゆだねられる。
比喩的、図解的になりがちな構図だがそうならないのは、鉄でできた倉庫の扉や、昼寝している男が物質的な存在感をもって捉えられている、という事から来ている。1954年といえば東京国立近代美術館で「抽象と幻想」という日本の前衛の作家達をとりあげた展覧会が開かれた。
そのとき鶴岡政男は「日本の画家は事を描いてるけど物を描かない、物をかかなきゃ、ものを捉えなきゃ。」と美術雑誌の座談会でいって大変話題になった。
曹良奎はある意味で、事ではなく物を描かなきゃならないと言った鶴岡の言葉どおり、もっとも独特な形でこの作品に実現していると私は思うのです。マチエールに託された存在感が、彼の絵を決して図解や説明や比喩にしない迫力を生み出している。
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「目立て」1954年
深川あたりでのこぎりの目立てをやっている、そういう老人を見かけたのかも知れないけれど、多分プサンのそういう老人を追憶の中から同時に探り出してこの絵が出来ていると思う。朝鮮人の普通
の民衆を描きたい、ただ単に自然主義的にじゃなく、そこに含まれているすべての問題を描きたいというのが彼の一貫した念願でありました。
「土地を奪われる」1955年
開発のため土地を奪われるという現実が李承晩政権のもとの韓国でも続いているということでこのテーマを描いたと思われる。
「凶作」自由美術展出品
稲が実らず呆然としている農民の姿。これは日本でも見たのかもしれないが郷里の追憶と重ねている。
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密閉せる倉庫
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「31番倉庫」
倉庫シリーズはみんなどこか抽象化されていますよね。31という文字があって扉があって暗闇があって、その倉庫番の男が立っている。その暗闇、鉄の扉、そこからはじき出されつつ、しかしたくましく立っている男。その関係は心理的というか想像力の中で、見る方が再構成しなければならない。
「倉庫」1958年
ほとんど抽象絵画。倉庫の半ば開いた扉と壁に目張りが模様のように施してある。この壁が人間を遮断し、さらに想像力をかきたてるわけです。
いちばん抽象化に達した作品です。
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「牛と男」1957年 一方ではこういう牧歌的な動物と親しんでいる農夫の姿を絶えず追求している。
日本の作家と違って、かなり伸びやかな空間が感じられます。
「マンホールA」1958年
倉庫の半ば開いた扉のファサード、正面で人間を疎外し、抑圧し、支配する鉄の壁ような状況を表現していた彼が、マンホール・シリーズになりますと、そういう言わば極限状況はどこにも無い、大地に人間はもぐっている。大地に穿たれたあなからちょっと顔を出し大地に支えられながら、しかし大地に人工的に穿たれたマンホールの穴、そこに入ってそこから顔を出して見ている。状況はいまや人間に対立するだけではない、人間を包み込んでいる。大衆社会などという言葉も生まれたが、権力が権力としてひとり在るのではない、いまや権力というものは情報産業にもレジャー産業にもあらゆる商品市場にも至る所に遍在していて、ひとりの独裁者が民衆を支配しているのではない、機構全体が人間を支配している。これはミシェル・フーコーの60年代の著作に出てくる高度資本主義社会についての規定だが、そういう状況をいわば先取りしている。つまり権力はどこにも無い、労働者は地下に潜る、しかしそこで大地に支えられて穴から顔を出して、その状況を下から見ている。
倉庫番シリーズが壁と直線で成り立っていたのに、こちらのシリーズは曲線と円形が多い、そして人間はその状況のなかにうずめ込まれて戦いながらその状況を見届けようとしている。という姿で捉えられているんだと思う。
そういう下層労働者の底辺からこの経済成長の発端の時期の状況を照らし出した作品は彼以外無い。
85年にポンピドーセンターで「前衛の日本」という展覧会が開かれた時、在日の作家では彼のマンホール・シリーズから2点だけが選ばれたのだが、よくぞ取り上げてくれたと思う。
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「マンホールB」
人物も消えて穴とパイプ、太いホースそういうものだけで、しかし土はものすごく厚塗りで執拗に塗り込められている。行き場の無いエネルギーがここに充満している感じがする。
「ぶた」1959年
村松画廊での個展に発表した作品。牧歌的な系列に入るようだがここでもまるまると太った豚と二人の男のあいだには鉄条網と垣根がありこの二人はそこのは入れない、疎外されている。しかしなにか果
物みたいなものを持ちながらうらみつらみもあるか知れないが陽気に語り合っている。
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「マンホールB」
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「マンホールC」
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「マンホールC」
村松画廊での個展に発表した作品。マンホールの穴からひとりの男が異常に強いまなざしで、いまにもうずめ込まれそうになるのを、必死で這い上がろうとしているようにも見える。
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「マンホールD」1960年 アンデパンダン展
このシリーズの最後。ダイナミックでマチエールがひじょうに強くなっている。
マンホールの蓋といい、ホースといい、土、アスファルトの地面といいみなそうだ。
「マンホールE」自由美術出品
穴の中から、縁に、すがっている両手だけが見える。休んでいる青年(タオルを肩に掛けすわっている)、がなんともこの労働に無関心みたいなのが、大衆社会化した状況を非常によく捉えている。ここでは主人公は顔が見えなくて、両手だけがわずかにその縁に見えるという、非常に面
白い描き方です。
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「マンホールE」
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「仮面をとれ」1960年 8・15解放15周年記念展出品
日本の60年安保闘争で樺美智子という女子学生がもみ合いの中で死んだ事に刺激されながらも主題としては、4.18の李承晩政権をついに退陣させた韓国の学生蜂起、そのなかで、死んだ息子をかかえて、怒りの目を兵隊達に向けている母親、おそらく父親、兄弟もいてそのむこうに防毒マスクをつけて白々しく無表情に立ち尽くしている兵隊達が描かれている。ここでも、前景と後景との間には一歩と見えてすごい断絶が在ってこれを越えられない、これを越えことは現実にはまだ不可能で、想像力の中でしか越えられない。たとえばこの武装した兵隊がある革命の昂揚した瞬間には武装したままむしろ既成の権力者に向けて民衆と共に蜂起する事が歴史にはありうるという事を私たちは知っているが、それにはまだ民衆の方の力が非常に不足であり、そういう展望、戦略を民衆のどこの勢力も持っていない事もここからくみとれます。政権をついに退陣させても実際韓国につぎに訪れたのは朴軍事政権であり解放ではなかった。それは日本も同様であります。
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在日の鄭敬模氏はやがて韓国から革命がおこり、それが日本に波及すると私に語った。
実際韓国の方は、長い軍事政権をついに倒して民政・金大中政権に至るまでの道のりは、日本より遅い様でありながら着実である。日本は長く自民党独裁が続き、政治家は自覚の現状維持のための反動法案を次々と成立させ、誰一人政治家達は世論とのギャップに気付かない。日本の方が遥かに遅れている。まさにチョン・ギョンモ氏のいったような状況になりつつある。
そういう意味でも、曹君の12年ほどの在日中の仕事は、あらためて見直し、意味を深くさぐるべきだと思います。
彼が私に語ったのは北朝鮮へ行けば、絵具も表現の自由もかえって乏しいという事は分かっているんだけれども、朝鮮の風景やあるいは朝鮮民衆の顔の表情がもはや記憶の中にしかない、やはりそれを実際に見て描きたいんだ、これは具象作家として、常に経験と実感をふまえて方法を組み立ててきた彼としての当然の要求だと思う。もう一つは、枝川部落の中でも、労働党に入ってないとアルバイトなんかもいい仕事にありつけない、だんだんそういう圧迫が強くなってきたんで、プサンを逃亡したような脱出願望がもう一度彼を捉えたのかも知れません。
さっき配った写真と手紙が、彼の帰国後一年ぐらいして来て、「仮面
を取れ」の主題でもう一度、作品を描いている、というような事が書いてあったのだけれども、最後に「米日反動を粉砕するために貴下の益々のご健闘を祈りします」と書いてあって、俺にまでそんなこと書かなくってもいいじゃないか、検閲があってそう書かざるを得なかったのかな、と思った。
その写真ですがおなじ主題を描いてたしかに人物の表情、姿態はよりリアルになりましたけども、前よりもアカデミックになった気がする。
いま、生きているのか、どこに住んでいるのかも分からない。ぜひ皆さんの力で消息をつきとめて欲しい。
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なぜこの時代の曹良奎の仕事が現在までの日本の美術界を振り返っても重要なのかという事なんですが、70年代以後、日本の美術は全体として言えば例外はあるが社会的主題をほとんど喪失してしまった。それは世界で日本だけなんですよ、社会的主題を喪失してしまったのは。
それはその頃出てきた若い批評家達が「芸術の自立性」てな事をしきりに強調したせいかもしれない。しかしもともと芸術の自立性とは、芸術家が現代に生きている限り政治、社会、経済、文化などのあらゆる問題に直面
せざるを得ない訳で、そういう問題をすべて美術固有の機能で捉えながら、検閲やタブーを排して自ら自律性を作品において獲得していくものです。それを、芸術とはここからここまでという垣根があって垣根のなかで主題から表現まで完結しなければならないという風に考えているのは間違いです。芸術の自律性の誤った捉え方であり、経済大国になった日本の現状に甘えているというか自足しているからそういう考えになるんだ。というのが私の批判です。
おととし、目黒美術館で多摩美の峯村敏明氏ら教師陣が企画をゆだねられて1953年展が開かれた。1953年というのはなんにも無い年だったから選んだという。
私個人はこの年、文芸批評のほかに美術批評を書き始めた最初の年で、最初の展評としては青年美術家連合と前衛美術会共催のニッポン展をとりあげた年なんです。
山下菊二の《あけぼの村物語》や河原温の《浴室》シリーズというのがそこに出ていて、それらを出発点とするルポルタージュ絵画などといわれる50年代リアリズムが再評価されつつあるのですが、峯村君たちはあれは社会的主題だけがあって、表現が成熟していないから取り上げなかったというんです。そんな事はない。この論争を通
して私が痛感したのは、私達にはダダイズム以後、既成の表現のなかに納まっているものは、すでに芸術ではない。まだ芸術になってないもの、芸術を否定するような要素を取り上げながら新しい芸術性を見出していくものでなければならないという考えが自明の理としてあったのだがどうも峯村君なんかには無いんだなあという事を知った。
その既成の芸術を否定する契機を50年代のルポルタージュ絵画といわれた作家達は現実の社会矛盾の中に見出した訳でありました。それが芸術作品として成立するのかどうか、それには方法論がどうあるべきか。
シュルドキュメンタリーという事を言いましたけど、シュルレアリズムをどのようにして越えて内的リアリズムと外的リアリズムをどういう風に統一するかを絶えず論議していた。あんなに方法論について論議した時代はないといっていいくらいです。
その中でも、誰にも負けずに自分の主張を通して見事に作品に実現していったのが曹良奎だったと思っています。こういう作家はふりかえって日本人にはいなかった。
曹良奎の仕事をあらためて深く掘り下げ、そこから学ぶ必要があるというのは、以上のような理由です。終わります。
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※ここに掲載されている図版は、芸術新潮 1960年11号よりの転載です。
※線枠のある画像はクリックで大きな画像が呼び出されます。
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※掲載中の画像及び文章の無断転載を禁じます。copyright(c)2000.
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