翁長直樹  沖縄県文化振興課主査
1. 沖縄の戦後美術

 今日は沖縄の戦後美術ということでお話をしてみたいと思います。
 沖縄の美術といいましてもなかなか皆さんご存知無いかと思うんですが、沖縄に独立した美術史があるかといいますと、それは無いといった方がいいかもしれません。
 しかしながら、先ほど田中三蔵さんがお話になったように、社会や風土というバイアスというのがあって作品にそれが色濃く出てくる。そういう意味では沖縄は歴史的にも地理的にも随分本土と異なり、独自な歴史を持ち、海を隔てて東京から1700キロメートル離れているので美術の流れ、美術の運動みたいなものも送れてやってくる訳です。それと戦後27年間の米軍統治による影響もあります。その意味では日本の中ではかなり異質な美術、美術史があるとも言えます。
 95,96年に県主宰の展覧会をしました。95年がモダニズムの作家について、96年が固有性にこだわった作家についての展覧会です。この二つの展覧会で沖縄の50年を概観できるような形にしようと思ったわけです。今回はこの展覧会に出品された作品を中心に紹介したいと思います。
 戦後美術をお話する前に戦前の沖縄美術について若干触れておく必要があると思います。
 まずそもそも沖縄は琉球王府があり、独立国だったわけです。その中に王府お抱えの絵師がおりました。貝摺奉行といいますが、漆器工芸を担当する部署があり、その中に漆器の図案や、絵画、寺社、建造物などの装飾を引き受ける公務員がいてそれが約500年くらいは続いたのです。(現存する作品は17世紀のものがもっとも古いのですが)明国とのさく封体制に基づく朝貢貿易や東南アジアとの貿易によりかなり潤っており、それを基盤に琉球の美術工芸が盛んになり、その後琉球画はかなりもてはやされ、江戸幕府、薩摩、中国への献上品として尊ばれていた経緯があるわけです。
 ところが明治維新以降は琉球の絵画が跡絶えます。それ以降は本土からきた洋画にとって代わります。もともと洋画は日本本土と同じようになかったのですが、東京の美術学校を卒業した美術教師たちによって油絵が伝えられたのです。東京美術学校出身者が多く、白馬会に属したような優秀な作家が初期のころは教師としてやってきます。彼らの教えを受けた人々が美術を志し教師や作家となります。はじめはほとんど美術教師のみから、だんだん盛んになっていくのは、昭和に入ってからで、昭和10年前後から那覇市内で個展を開く作家が現れるようになります。
 そのころが、沖縄美術の近代洋画の幕開けといえそうです。以上が戦後美術を考える上で触れておきたい前史です。
 さて沖縄の戦後美術の流れについては日本と異なる独自性は際立ってあるわけではありません。
 しかしながら、沖縄の戦後美術の枠組を規定してきた社会的要因はあると考えられます。
 第一番目にアメリカによる27年の異民族支配と、それと矛盾する米軍によって行われた文化保護育成政策などです。この大きな矛盾が後々の沖縄文化、美術に与える影響は大きかったといえます。
 二番目に日本との関係です。沖縄の作家達はほとんど団体展に属しており、そこでの受賞と、会員になることを目標にしたのです。
 それは狭い沖縄の中では自分の芸術の実力がどの程度なのか不安であり、客観的な評価を得たいということで、70年代以降は支部を結成します。また、日本復帰前はアメリカ留学が盛んでしたが美術は枠がなくて、日本留学というかたちで美術学校に行っています。
 3番目は県内での力関係です。沖縄県内では大学の教員と学校の美術教師が県内の美術を支えていました。80年代に芸大ができるまでは琉球大学が唯一の教育機関でした。それともうひとつは戦後すぐにスタートする新聞社による展覧会「沖展」が作家を育て、観客をかなり動員しました。
 この三つが沖縄の戦後美術を考える上で主な社会的要因になると考えます。沖縄線後美術の特徴としましては、
 (1)王朝時代からの伝統が無いこと。(琉球絵画が絶えた後、近代洋画の伝統はあるが)
 (2)政治的、社会的主題を捉えた作品が少ないこと。
 (3)日本画壇のようなヒエラルキーがないこと。
 (4)ジャーナリズム主導であったこと。
 沖縄の戦後50年は、日本における明治期から大正期、昭和というような近代から現代までの歩みを凝縮したような感があります。戦前から戦後の初めまでは写 実を旨とする作家が中心で、50年代になると大正期と同様な前代に対する反発、モダニズムが始まります。
 60年代になると一気に日本の50年代の反造形的な動きと同じ動きがあり、ネオダダ的な動きが出て前衛グループが出てきて活動します。
 70年代は復帰が大きなエポックとなるわけですが、72年の日本復帰の前と後では随分異なった展開があります。70年代の状況は復帰と75年の海洋博覧会の後遺症があって静かに過ぎていきます。固有なものを探る時期でもあります。また、日本の団体展に組み入れられる時期でもあります。
 80年代はいわゆるリゾートブームとともに一気に都市化していく時期で、表現も多様になります。
 90年代になると80年代の延長ではありますが、アジアに目を向けていき、自分達の主体性を打ち立てていこうとする動きが出てきます。
 だいたい以上が今日お話する非常にかいつまんだ沖縄の戦後50年の美術の流れです。もちろんいろいろな見方がありますが、その中の一部についてご紹介したいと思います。

 以下時代を大雑把に分けると次の4期になります。
 1期目は1945−1949(美術の復興期)年
 2期目は1950−60年代
 3期目は1970年代
 4期目は80年代から現在まで
 


1. 第一期 1945−1949

 終戦直後沖縄中部、石川市に米軍の指導の元に暫定的な沖縄民政府が置かれ、文化部芸術課が設けられ、美術家を公務員として雇い美術の仕事に従事させました。絵画教室、各地での展覧会の開催、クリスマスカードなどを描かせています。1946年には石川市に民政府の博物館、ギャラリーがあり、そこを美術家は活動の場としています。

美術村

 48年まで石川にいた芸術家達は、米軍の南部への移動の後、官職を解かれますが、米軍の文化後政策もあり、自分達で美術村を那覇市首里の北森に建設するのです。那覇市首里に美術のコロニー「美術村」ができます。そこに画家達が移り住んで制作をするわけです。
そして49年には沖縄タイムス社主催の「沖展」が始まります。
 これらの美術家はその当時としては恵まれた環境におり米軍将校クラスの肖像画やその家族の肖像画などを主として描いて生計を立てながら、自分達の創作展開していたのです。肖像画とともに米軍人好みのオリエンタリズムをにおわせる絵がたくさん描かれました。

 沖縄の戦後をリードする作家に安次嶺金正、玉那覇正吉らがいる。安次嶺金正は、終戦直後の打ちひしがれた沖縄の人達を描きました。
 1948年首里アートコロニー(通称ニシムイ美術村)の作家達を中心に沖縄タイムス社主催の「沖展」が始まる。最初の審査員は名渡山愛順(「枕ならびたる夢のつれなさや」1967、油彩 )、大嶺政寛が著名で名渡山は東京美術学校を出て、主に日展、光風会で活躍しました。
 彼らは明治的な美意識、ロマンチシズムの追求というか、美しいものをいかに上手く描くかに重きを置いた。二人とも工芸、民芸に詳しく、沖縄文化にどっぷり浸かっている作家達です。

名渡山愛順
「枕ならびたる夢のつれなさや」
南風原朝光「野菜と果物」
山本恵一「夜の雨」

 南風原朝光(「野菜と果物」1940、油彩)、山本恵一(「夜の雨」1967、油彩 )、大城皓也(「海の祭典」1974、油彩)は名渡山等とほぼ同世代であるが、沖縄的なモチーフを取り上げず、静物や抽象化された人物、色彩 や形態を通して沖縄を語る。 ある意味では普遍的な美を追求する、大正的なモダニズムの先駆的な作家達です。

 大城皓也は立体派、構成主義の後、沖縄の神話に題材をもとめ、画風が大きく変化する。
 それは1966年の岡本太郎との首里王府の聖地であった久高島へ12年に一度の神事を見に行って後に、がらっと変わるのです。
 この変化は後の世代に大きな影響を与えました。

 大城皓也「海の祭典」

2. 第二期 1950−60年代


(1)戦後モダニズムの開始
 戦後、美術村にいた第2世代の作家達(戦後に活躍する作家達)は現実を見据えた初めての作家達でした。(安次嶺金正「赤い幹」1959、油彩 )
 作品の自律を目指し、無駄なものを削ぎ落とした造形に初期は現実批判を加えた作品を描いた。

安次嶺金正「赤い幹」
玉那覇正吉「灯のある風景」

 玉那覇正吉「灯のある風景」(1980、油彩)は写実から構成的なものへの変貌はあるが一貫して戦争で犠牲になった人々の鎮魂を描いています。「灯のある風景」も造形的な要素を重視しながら主題は鎮魂です。
 彼等3人は他2名と「5人展」を結成し、50年から54年まで、展覧会を9回続け、パンフレットを発行し啓蒙活動をやりました。
 このような活動は戦前戦後通じて初めてでした。

(2)米軍と美術家達の関係

 米軍の文化保護育成政策はしかし植民地的な支配であって根本には本土との分断を促進させるための政策の裏づけであったと思われます。反戦反米的な主題を持つものもあるが大変少ない。これは米軍による文化保護育成政策とともにもうひとつの理由は、沖縄戦事態が非常に複雑な位 置にあったためです。もともと独立国であったという記憶と、日本軍が沖縄住民を巻き込んで大量 な犠牲者が出たから、日本の敗戦が沖縄にとって解放されたという気持ちを持たせたのです。その意味では、米軍との関係はきわめてアンビヴァレンツだといえます。これは米軍が基地建設のために強制的に土地を住民から取り上げた時期に、米軍基地内に集合した沖縄の主要作家達であります。しかし基地内での展覧会は彼等にとっては喜ばしいことではなかったはずです。米民政府は各地に文化センターを建設し弁務官達は良く展覧会等、文化行事に足を運んだ。このような美術家に対しアンチの態度を取る作家達が出てくる。安次富長昭の「キビを食う男」(1956、油彩 )はその代表的な作品です。土地強制収容に対する怒りが表現されていると作者は言っております。

安次富長昭
「キビを食う男」
(3)1960年代 前衛の時代
城間喜宏「亜熱帯の島から」

 60年代に入るとアバンギャルドが出てきます。第2世代の造形主義に対し、反造形主義、反芸術が現れます。「グループ耕」は城間喜宏(「亜熱帯の島から」1968、パネルに戦闘機の破片)也理論的中心メンバーであった大浜用光(「渇き」1968、ベニヤ板に油彩 、砂、ロープ)ら5人が、1962年から67年に解散する間、先駆的な活動をし、時代をリードしたグループです。

大浜用光
「渇き」

3.1970年代 本土団体の系列へ

普天間敏
「琉球の詩」

 1970年代は日本においてはモダニズムの衰退期で,政策から理論活動重視に移る時期でありますが、沖縄においても若干似たような経過をたどります。
 前衛活動は復帰とともに終息し、復帰後遺症とともに社会全体が静かになり、土着に向かい土俗的な作品に戻る傾向がありました。シュールレアリスム(幻想絵画)が盛んになります。また復帰後の大きな特徴として個々の作家が本土の団体の系列に帰属していきます。
 普天間敏の「琉球の詩」(1972、石膏版画)は土着的なものをテーマに沖縄を表現しようとしました。初期はベーコン、ブンダーリッヒに影響を受け人体のフォルムを削ぎ落としながら追求しようとした喜久村徳夫「寒い春」(1980、油彩 )、比嘉武史「気配」(1975、油彩)はシュールレアリスム(幻想絵画)の影響を受けています。

喜久村徳夫「寒い春」
比嘉武史「気配」
新城政孝「テトラポット」

 新城政孝は75年の海洋博覧会の時に開催された「海を描くコンクール」にテトラポットを出品(アルン展出品作)。この絵には海が描かれておらず、その後の沖縄本島の海が全滅に至る過程を象徴しているかのようです。
 70年代は静かであるが、着々と近代化が進む。公共投資がかなりあり、日本の消費経済を沖縄に伸ばす時期で、海洋博覧会はその象徴でもあります。屋外展を開いた新垣安雄はそう言う社会状況に対してアンチの態度をとっている。
 この75、76年が沖縄が日本経済に組み込まれていくイニシーションの時期であったと考えられます。


4.80年代−90年代

(1)80年代 拡散の時代
 80年代はリゾートブームで沖縄の風景が一変します。
 沖縄の風景は2度変貌するが,最初は第2次世界大戦で2度目は、70年代後半から80年代にかけてです。それに伴い本土に合わせたかのように、沖縄の人々の自分達を見る視線が変化します。ある意味では沖縄自身の商業的価値を認識する時期でもあります。文化においては逆に固有性を自覚させ、多様な思想、表現の芽生えともなります。
 80年代は情報が速く入り、かつ増大し、美術についてもストレートな情報が入るようになります。
 そのような風景の変貌に対応する作品、モダニズムを鈍化させミニマルアートを習得した作品、また都市化が進み、造形空間が広がり、需要が増え、立体造形の作家が増えます。
 都市化とともにギャラリースペースが急に増え、県立芸大が設立され、琉球大学や芸大に本土から若い教師がたくさんやってきて、刺激を与えます。
 永津禎三は琉球大学で教える傍ら、自主ギャラリーを開き、若い作家を育てました。その中の一人知花均はモダニズムを追及し、超えていこうとしています。
 70年代に沈黙をまもっていた中堅の世代で、個的な営為を持続し、80年代には、技法を獲得し、沖縄の風土、固有なものを深く追求し確立する作家がでてきます。

(2)90年代
 90年代になると若い作家の活動が目立ちます。
 彼等はインスタレーションを主にして、街頭や空店舗を使った展示を盛んに行うようになります。新里義和や勝連竜子「ものそのもの ことそのもの」(1994、石膏、ワイヤー)、インスタレーションのコラポレーションによるインスタラクティヴな作品や、花城勉「Keep Frozen Art」(1994、ミクストメディア、冷蔵庫に電話帳、縫いぐるみ)、志喜屋徹「ローテーション」(1994、Tシャツ、洗濯ばさみ、竹籤)の消費社会を揶揄する作品などです。
 この時期からアジア美術の影響があり、モダニズムの言語に縛られていたのを解き放ち、沖縄の古い聖域のようなものを取り出して表現しようとする作家が出てきます。
 90年代のもうひとつの特徴は、移動が頻繁に行われたことです。海外に渡る作家や来る作家が増える。フランスで活躍し、97年のグラミー賞公式アーティストに採用された幸地学「母の日」(1992、アクリル)や沖縄系2世でペルー出身のゴヤ・フリオは沖縄で活躍、他に栗国久直がいます。
 これまで見てきたものはある意味で現代美術の言語を使った作品ですが、それとはまったく違う形で自分達の根っこに降りていって活動する作家達がいます。
 原始的なフォルムを描くウルカトム「風生まれ風帰る処」(1993、漆喰、アクリル)、空間恐怖を思わせる宮城和邦「越後継神の後継資格席宣言」(1989、油彩 )、桑江良建「人形劇団かじまや」(1987,油彩)、その他に大城譲「太陽讃羽(サンサンバ)」(1995、アクリル)、新垣正一「にーげぐとむらしばいぬ すねーい」(1992,油彩)などです。

勝連竜子
「ものそのものことそのもの」
志喜屋徹「ローテーション」
宮城和邦
「越後継神の後継資格席宣言」
桑江良建「人形劇団かじまや」
幸地学「母の日」

ウルカトム
「風生まれ風帰る処」
花城勉
「Keep Frozen Art」
新垣正一
「にーげぐとむらしばいぬすねーい」
大城譲
「太陽讃羽(サンサンバ)」

 今日は沖縄の美術があまり知られていないということで、総括的にほとんど並べて紹介しました。90年代に入ってアジアと沖縄は随分交流があります。沖縄はこれまでと違う発信をし、主体性をもって関わろうとすることが文化全般 に見られます。
 美術に関してはまだまだこれからですが、自分達の根っこの部分を掘るような作品作りをする作家が出てきて、また若い作家がいろいろなスタイルを持ち始めたり、国際的に活躍する作家が出てきて、これから期待できると思います。

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