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リ・ヨンフン 朝鮮大学校教育学部美術科主任
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1997年と1998年に韓国ソウルで2度に渡って「近代を見る目」という展覧会が催された。近年、韓国での近代美術史研究の成果
が示された大規模な展覧会となったが、そこには曹良奎をはじめ宋英玉、全和凰の3人の在日作家の作品が展示されました。在中国や、在ロシアの作家も紹介された。 |
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前置きが長くなったが1909年、高羲東(コ・フィドン)の東京美術学校西洋画科留学から朝鮮の近代美術は始まる。日韓併合の1年前、大韓帝国の旅券を持っての渡日であった。これは芸大が所蔵するその卒業制作の自画像です。記念すべき朝鮮の油絵第1号はリャンバンの正装をした李朝人の姿であった。 |
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これら初期の留学生達は卒業後すぐに帰国し多くは無理解の中で筆を折ったり、油絵から古来の伝統水墨に戻ったりしたが、朝鮮最初の美術団体や美術研究所設立に尽力した。高羲東は帰国して油絵を描いていると友人から、日本まで勉強に行ってそんなニワトリの糞みたいなものを塗る事を習ってきたのかと良くからかわれたと回想しています。 |
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高以来、1947年に卒業した李寅斗まで64人の朝鮮人留学生が東京美術学校を卒業したのです。中退者を含めると89人になる。最後の留学生である李寅斗がのち1953年に日本で結成される総連系の在日朝鮮美術会(文芸同の前身)の初代会長となった。 |
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李仁星(リー・インソン)は日本の太平洋美術学校を出ている。17歳で鮮展に入選し、19歳の31年から鮮展で6回連続特選に選ばれ最高賞を受賞し無鑑査となります。文展にも3度入選し賞候補にもあがった。鮮展は李の為に運営されたと言う陰口が出るほどのトップスターだったが解放後の評価はあまり高くはなかった。これは22歳の時の作品でゴーギャン風の土俗的イメージは支配者である日本人から見た未開な朝鮮人の姿と重なってしまうのです。鮮展を代表する天才的な画家です。 |
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日本が朝鮮近代の美術家にとって学びの場から活動の場となっていくのが30年代後半からであります。東京美校留学生、鮮展、文展と言ったアカデミズムから、日本画壇の流れに同時代的に参加する留学生や画家たちが現れてくる。 その頃の代表的画家を一人紹介するならば帝国美術学校を出た李快大(リクェデ)という画家がいます。これは李快大の二科展出品作、素材としての民族表現から自己表現としての真の近代化がこの頃の日本で始まる。 自由美術では朝鮮初の抽象画家、金煥基などが活躍している。 解放(終戦)と同時に李快大はそれまでの鬱憤を晴らすかのように、爆発的な民族群像連作を発表する。 |
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解放後(終戦後)、日本に残った美術家達はそれぞれ個別的な活動をしていたが、圧倒的に優勢だった左翼系の美術家達が結集し、1953年に朝鮮美術協会が結成されます。その頃から、日本アンデパンダン展を中心に活発な制作、発表をして独特のリアリズム運動を展開します。彼らは在日同胞の生活や戦いを生々しく描き出した。50年代後半、在日の最大の闘争は、朝鮮民主主義人民共和国への帰国実現のための戦いでありました。今でこそ、様々に歪められて語られているが、その当時の在日1世たちにとっては至極当然の願いであったし、虐げられてきた人々が始めて自主的に勝ち得ようとした民族運動だったのです。 韓宇英(ハン・ウヨン)の「帰国を待つ人々」。韓はモニュメンタルな大作を多く描いたが62年に帰国し日本に作品はほとんど残ってない。 1958年許勲(ホ・フン)の「帰りたし祖国へ」は5メートル近い大作で、第14回日本アンデパンダン展に出品されました。過剰な充溢感は李快大に師事した許の強烈な自己表現です。直接的な写 実表現は1945年が敗戦ではなく、解放であった朝鮮人達の意識の現われのようにも思われます。 |
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在日コリアンの美術家というと最大のスターは“モノ派”の李ウーファンか、先ほど針生先生が語られた曹良奎(チョー・ヤンギュ)[※参照・戦後美術の中の曹良奎]が有名ですが、今日は李ウーファンが70年代に活躍するその少し前の人たち、曹良奎と同時代の人々を紹介したいと思います。
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全和凰(チョン・ファファン) 今回アルンには1950年行動に出品した「銃殺ーある日の夢」が展示されているが、これは1919年3.1人民蜂起を主題にし民族の悲劇を描いた作品です。そこにはその歳から起こった朝鮮戦争に対する画家の苦しみや怒りが現れている。この次の年51年の作「群像」は行動賞を受賞した。 |
アルン展・シンポジウム参考作品 |
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「カンナニの埋葬」(左 図版 白黒図版より転載)「再会」と続く一連の群像連作は全の制作の一つのピークだと思うが戦争と言う民衆の悲劇、平和への思いをこれほど直截に描いた画家は南北朝鮮を通 じても全だけだろう。群像はインドのネール首相に寄贈され、カンナニは毛沢東主席に寄贈されたそうですが、そこの所の事情はちょっと分かりません。
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「舞」は54年の作品ですがこの頃の全の絵としては珍しく明るく晴れやかな作品です。戦争が終わり平和のイメージを詩情豊かに描いている。全は解放後、思想的には社会主義を支持し総連系の文芸同に属し京都支部長であった。 |
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そして60年後半頃から仏像をテーマにして描き続ける。 |
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60年作のこの作品はその頃の代表作です。韓国の民衆の悲惨な生活を描いた物です。 |
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今年(1999年)亡くなられた宋英玉(ソンヨンオッ)は自由美術協会に所属しながら美協に参加し大阪支部の部長を勤めた。 宋英玉の作品は在日コリアンの苦しみを一貫して描いている。 |
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3面鏡という題の絵ですが、長引く祖国の分断の中で閉塞し分裂する画家の思いがこの作品に叫びのように満ちている。 |
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女魔術師が平和の象徴であるハトを出すこの絵にも真の救いは感じられない。植民地、戦争、分断という20世紀コリアの歴史を静かに耐えながら見つめ続け生き抜いた画家で晩年はたいへん不遇であった。唯一の救いは彼の作品の多くがハジョンウン氏によって母国の美術館に寄贈された事です。 |
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金昌徳(キンチャンドッ)は1910年に生まれ長い間文芸同美術部長を勤めた総連系の代表的な画家です。戦中から高橋進の名前で二科展に出品し、戦後、行動美術の発足からそこに参加した。 |
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在日の民衆の生活を描いた「貧しい生活」には地味だが重厚なリアリテイーが感じられしみじみとした味わいがある。 |
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※アルン展・シンポジウム関連参考作品 |
今回展示された「6.30C」(アルン展・シンポジウム関連参考作品)は妻の死と家族の嘆きを描いた自伝的作品です。白い独特のマチエールが朝鮮の陶磁器のように悲しみと愛しみを感じさせます。 |
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72年に脳梗塞で倒れる前の作品です。青い空の下で破れた傘を差した老人が二人立っている。それだけで何か強烈に金昌徳という在日コリアンの姿が、存在感を持って見えてくるようです。彼の家にはいつも朝鮮の若く貧しい芸術家が入れ替わり居候をしていたそうです。彼は生前一度の個展も開かなかった。これらの作品は82年に死んだ後初めて倉庫から出された物です。在日の美術家にはこのように埋もれたままの作家が実に多いのです。 |
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白玲(ペクリョン)は武蔵野美術大学を出て若い頃はシュールレアリスムをやっていたのですが、若い頃の作品は散逸して見つかっていません。 |
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文芸同美術部の中で理論や批評の中心だった白玲は社会主義リアリズムの創作方法論で自己変革をしていく。 |
シンポジウム参考作品 |
様式的には折衷の感じが否めないが、時間が止まってしまったような独特の静謐感は以降のリアリズム作品の中にも強く感じられる。しかし一方的なリアリズム論議の中で個性的な画家の資質が深められず、アンバランスになっていくような悲劇性も後期の作品からは感じられるのです。 |
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郭仁植(カッ・ギンシッ)に付いてはここでことさら述べるまでもありませんが韓国系の前衛美術家です。 |
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独自の実験的な作品を戦後から発表し李ウファン等の“もの派”の先駆的な地位 を占めると同時に韓国的なモノトーンの平面作品をえがく。韓国では単色派といわれるミニマル系平面 作家の中心的存在の一人と評されている。ガラスや金属、石などの素材に最小限の手を加え、ものと人間の関係、意味に執着し追求した。 |
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今日紹介した総連系作家達と郭仁植、ホングソンなど韓国系の作家が1961年銀座の村松画廊で連立展を開いています。その頃はひたすらガラスを割る仕事をしていました。連立展は3度続いたがその理念は今日のアルン展に繋がる物です。 |
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最後に権鎮圭(コン・ジンギュ)という彫刻家を紹介します。権鎮圭は解放後、李快大の成北絵画研究所に通 いそこには許勲がいました。かれが日本に滞在したのは1947年から59年韓国に帰るまでの12年間に過ぎませんが60年北に帰った曹良奎と同じように日本に滞在した短い時間が制作に決定的な意味を持った作家です。日本に渡り武蔵野美術大学で彫刻をやります。学生時代から二科に出品し二科賞を得て学生の時に二科会員になっています。 |
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その頃東京で共同生活をした許勲は、権の口癖は祖国に帰って故郷の山に磨崖仏をやりたい、大きなモニュメントをやりたいということだった。李快大もそうだし許勲や多くの在日画家が民族群像やモニュメントにこだわったのは解放された若い美術家達の自然の要求だったのでしょう。日本で結婚もしたが故郷の母親が危篤だと聞いて一人で韓国に帰ります。彼は韓国で制作を続けるのですがあまり認められず不遇の中で1973年に自殺をします。 |
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モニュメントを作るため出来る限り天井をたかくしてつくったアトリエだったがついに注文は来ませんでした。ただ68年に東京の日本橋画廊での個展が非常に好評で読売新聞にも大きく報道され国立近代美術館がテラコッタの作品を2点購入している。武蔵野美術大学から講師の話も出ましたが断ったそうです。日本での成功も祖国では黙殺されたのです。 |
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韓国での晩年の彼のレリーフ作品です。冷めてしまった絶望感のようなものが漂っている。今では評価が高まり韓国の代表的な近代彫刻家に数えられていますが、孤独の中で死んだ権鎮圭も曹良奎も20世紀コリア美術の負の側面 というか、何か象徴的な生き方でした。もちろん北に帰った表世鐘や南にいったピョン・シジのように一応の成功をした美術家達もたくさんいます。権鎮圭の作品は今回展示できませんでしたが日本にはかなりの作品が残っているようです。権鎮圭だけではなく今まで日本で埋もれてきたコリアン美術家達の作品を検証し同胞達や日本の人たちに見てもらい研究を重ねる事がアルン展のもう一つの大きな使命だと思っています。 |
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※線枠のある画像はクリックで大きな画像が呼び出されます。
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