リ・ヨンフン  朝鮮大学校教育学部美術科主任

 1997年と1998年に韓国ソウルで2度に渡って「近代を見る目」という展覧会が催された。近年、韓国での近代美術史研究の成果 が示された大規模な展覧会となったが、そこには曹良奎をはじめ宋英玉、全和凰の3人の在日作家の作品が展示されました。在中国や、在ロシアの作家も紹介された。
 在日作家の紹介には在日企業家の河正雄氏が韓国の光州美術館に在日美術家の作品を中心とした自らの多大なコレクションを寄贈されたことから出来た事だが、これはいままで一部の韓国系作家を除いて、まったく韓国から無視されてきた在日のコリアンの美術が韓国,朝鮮の美術史の中で正当に評価される出発点となるであろう。
 またピョンヤンの朝鮮美術博物館には数百点の在日作家および、帰国作家の作品が所蔵されていると思われます。それらの作品はまだ表立った展示や研究がなされていません。それは日本でも同じで在日コリアンという視点からの在日美術家達の研究はほとんどなされてきませんでした。
 
 在日コリアン美術とは、1945年以降日本に定住する在日コリアンの美術の事ですが、視点を少し押し上げて20世紀日本に滞在し美術を学んだ留学生、あるいは日本の画壇での活動を展開した美術家達も含めて、その日本での活動についてまず簡単に紹介したいと思う。
 話が少し外れますが韓国でも近代美術研究が盛んになるのは90年代に入ってからでそれまでは様々な政治的、歴史的問題がそれを規制してきた。韓国で近代美術史学会創立は93年。解放後、植民地時代の美術は、無関心、あるいは憎悪の中で忘れられ、多くがうしなわれ、かえり見られなかった。その要因はまず、我が民族の近代美術が民族文化の自主的で自由な活動の結果 として起こった物ではなく植民地状況の中で支配者日本によって教え込まれ、運営され、一方的に押し付けられると言う奇形的な形で成立したと言う事があげられます。
 恥ずべき歴史の延長に美術が存在する事。90年代に入るまでコリア近代美術の母体である日本近代美術の研究者は南北コリアに一人もいなかったし、韓国に現代美術館は数多くあるが近代美術館は一つもありませんでした。ちなみに冒頭に述べた「近代を見る目」展を契機に去年末に徳寿宮美術館が新しく開館しこれから近代専門美術館になると言う事だそうです。日本の近代美術史がすでに教科書的に整理され定立している事を考えれば実に遅れてはいる。
 もう一つは分断状況。南北で研究、展覧会等の交流が行われず美術家も作品も分断されました。朝鮮戦争によって多くの近代作家達の作品は失われ、いわゆる北越作家達が韓国で解禁されるのは10年前からである。
 そのような状況から20世紀の日本という現場がコリア近代美術の母体となったにもかかわらず本国の恨みや無関心が日本の研究者達の協力も阻んできたと言えると思います。しかし近年福岡のアジア美術館の活動や今年の静岡県立美術館から始まった東アジアー絵画の近代展など戦後半世紀がとうに過ぎた今、不幸な過去を乗り越えアジア的視点から近代美術を見直そうとした事は示唆的だと言える。しかし私たちから見て最大の問題は日本に住む在日コリアンがそのような問題に無関心であり、無知であったと言う事だ。私自身、今回色々な事を調べながらこれからの研究におおきな可能性を感じながらも複雑な心境であった。


高羲東 自画像

 前置きが長くなったが1909年、高羲東(コ・フィドン)の東京美術学校西洋画科留学から朝鮮の近代美術は始まる。日韓併合の1年前、大韓帝国の旅券を持っての渡日であった。これは芸大が所蔵するその卒業制作の自画像です。記念すべき朝鮮の油絵第1号はリャンバンの正装をした李朝人の姿であった。


 2人目の留学生である金観鎬(キム・グァノ)は東京美校西洋画科を最優秀成績で卒業し卒業制作の「夕暮れ」は第10回文展で特選を果 たした。

 これら初期の留学生達は卒業後すぐに帰国し多くは無理解の中で筆を折ったり、油絵から古来の伝統水墨に戻ったりしたが、朝鮮最初の美術団体や美術研究所設立に尽力した。高羲東は帰国して油絵を描いていると友人から、日本まで勉強に行ってそんなニワトリの糞みたいなものを塗る事を習ってきたのかと良くからかわれたと回想しています。

金観鎬 「夕暮れ」

  高以来、1947年に卒業した李寅斗まで64人の朝鮮人留学生が東京美術学校を卒業したのです。中退者を含めると89人になる。最後の留学生である李寅斗がのち1953年に日本で結成される総連系の在日朝鮮美術会(文芸同の前身)の初代会長となった。
 1922年に朝鮮総督府によって朝鮮美術展覧会〔鮮展)が創設され東京美校卒業者は44人がこれに出品している。もちろん鮮展を拒否した画家も多く、東京美校出身者にはプロレタリア芸術運動に走った者たちもおおく、彫刻家の金復進はKAPF(朝鮮プロレタリア芸術家同盟)創立の中心となり、金観鎬も1925年に捕まっている。20年代には東京美校出身者を中心に色々な美術家団体が生まれるが、鮮展での入選入賞を登竜門として日本で文展入選をねらうと言うケースが目に付く。李仁星と沈亨求はその代表的作家という事ができる。

李仁星(画像は晩期のもの)

李仁星

 李仁星(リー・インソン)は日本の太平洋美術学校を出ている。17歳で鮮展に入選し、19歳の31年から鮮展で6回連続特選に選ばれ最高賞を受賞し無鑑査となります。文展にも3度入選し賞候補にもあがった。鮮展は李の為に運営されたと言う陰口が出るほどのトップスターだったが解放後の評価はあまり高くはなかった。これは22歳の時の作品でゴーギャン風の土俗的イメージは支配者である日本人から見た未開な朝鮮人の姿と重なってしまうのです。鮮展を代表する天才的な画家です。


文展、帝展の図録をみると日本画家による朝鮮風俗やチョゴリの女性を描いた作品が非常に多い。 東京美校を出た沈亨求(シム・ヒョング)も鮮展と文展特選の常連だった。この作品は1937年文展に出品された「水辺」という作品だが、日本画家達に追随する文展系アカデミズムの典型を示していると言えます。現実主義としてのリアリズム思想は許されず現実社会とのつながり、時代の痛みや、民衆の願いから遮断された、イメージとしての写 実しか許されなかったと言う事です。鮮展の日本人審査員達は朝鮮画家達に日本内地とは違った地方的特性を出すことを強力に勧告し、それを審査基準の一つとして適用した。それは結局朝鮮画家の民族的表現意欲を郷土性だけに限定し近代的自我意識としてのナショナリズムを抑制する事に繋がりました。
 チョゴリをきた女性や牛、農村の風景など郷土的、土俗的、懐古的イメージの主題が定着し、そういった郷土的素材主義と言われる表面 的な民族情緒の表現の問題は我々の在日美術でもしばしば問題となる。

李快大(二科展出品作)

 日本が朝鮮近代の美術家にとって学びの場から活動の場となっていくのが30年代後半からであります。東京美校留学生、鮮展、文展と言ったアカデミズムから、日本画壇の流れに同時代的に参加する留学生や画家たちが現れてくる。
 1937年には在東京美術協会が結成され38年の創立展から6回展まで続きました。二科展や、独立美術協会、自由美術協会と言った新しい在野の新美術に多くの朝鮮人画家達が参加し日本で個展をする画家もでてくる。
 この頃目立つのは1930年頃から帝国美術学校に多くの朝鮮人画学生が入学し、(現在の武蔵野美術大学)その中から個性的な美術家が多くされる事。また太平洋美術学校や、川端画学校などを出た画家たちが卒業後も日本で研鑚を積んで1943年在東京美術協会第6回展の資料にはその会員が300人を越えたと記されているらしい。郭仁植の書いた文には36,7年頃は良い時代で東京に多くの仲間達がいたが協会を作ったためなおさら不自由になり監視され太平洋戦争後にはバラバラになってしまったと書いている。とにかく日本は若い朝鮮画家たちにとってメッカであったが、その全貌は掴みにくくこれからの研究が待たれる。日本で新しい作品が発見されたり資料が発見される可能性は実に大きいと思います。

 その頃の代表的画家を一人紹介するならば帝国美術学校を出た李快大(リクェデ)という画家がいます。これは李快大の二科展出品作、素材としての民族表現から自己表現としての真の近代化がこの頃の日本で始まる。 自由美術では朝鮮初の抽象画家、金煥基などが活躍している。

 解放(終戦)と同時に李快大はそれまでの鬱憤を晴らすかのように、爆発的な民族群像連作を発表する。

李快大(民族群像連作)

 解放後(終戦後)、日本に残った美術家達はそれぞれ個別的な活動をしていたが、圧倒的に優勢だった左翼系の美術家達が結集し、1953年に朝鮮美術協会が結成されます。その頃から、日本アンデパンダン展を中心に活発な制作、発表をして独特のリアリズム運動を展開します。彼らは在日同胞の生活や戦いを生々しく描き出した。50年代後半、在日の最大の闘争は、朝鮮民主主義人民共和国への帰国実現のための戦いでありました。今でこそ、様々に歪められて語られているが、その当時の在日1世たちにとっては至極当然の願いであったし、虐げられてきた人々が始めて自主的に勝ち得ようとした民族運動だったのです。

韓宇英(ハン・ウヨン)の「帰国を待つ人々」。韓はモニュメンタルな大作を多く描いたが62年に帰国し日本に作品はほとんど残ってない。

 1958年許勲(ホ・フン)の「帰りたし祖国へ」は5メートル近い大作で、第14回日本アンデパンダン展に出品されました。過剰な充溢感は李快大に師事した許の強烈な自己表現です。直接的な写 実表現は1945年が敗戦ではなく、解放であった朝鮮人達の意識の現われのようにも思われます。

韓宇英「帰国を待つ人々」
許勲「帰りたし祖国へ」
曹良奎

 在日コリアンの美術家というと最大のスターは“モノ派”の李ウーファンか、先ほど針生先生が語られた曹良奎(チョー・ヤンギュ)[※参照・戦後美術の中の曹良奎]が有名ですが、今日は李ウーファンが70年代に活躍するその少し前の人たち、曹良奎と同時代の人々を紹介したいと思います。

 


 全和凰(チョン・ファファン)
全は1909年に生まれ日本に渡った後須田国太郎に師事し行動展を中心に活躍した画家だ。

今回アルンには1950年行動に出品した「銃殺ーある日の夢」が展示されているが、これは1919年3.1人民蜂起を主題にし民族の悲劇を描いた作品です。そこにはその歳から起こった朝鮮戦争に対する画家の苦しみや怒りが現れている。この次の年51年の作「群像」は行動賞を受賞した。

「銃殺ーある日の夢」
アルン展・シンポジウム参考作品
「カンナニの埋葬」

 「カンナニの埋葬」(左 図版 白黒図版より転載)「再会」と続く一連の群像連作は全の制作の一つのピークだと思うが戦争と言う民衆の悲劇、平和への思いをこれほど直截に描いた画家は南北朝鮮を通 じても全だけだろう。群像はインドのネール首相に寄贈され、カンナニは毛沢東主席に寄贈されたそうですが、そこの所の事情はちょっと分かりません。

 

「舞」

 「舞」は54年の作品ですがこの頃の全の絵としては珍しく明るく晴れやかな作品です。戦争が終わり平和のイメージを詩情豊かに描いている。全は解放後、思想的には社会主義を支持し総連系の文芸同に属し京都支部長であった。

そして60年後半頃から仏像をテーマにして描き続ける。
全の作品に濃厚に表れているイメージの浄化による祈りの芸術は在日コリアン美術の一つの典型であると思う。

60年作のこの作品はその頃の代表作です。韓国の民衆の悲惨な生活を描いた物です。


 今年(1999年)亡くなられた宋英玉(ソンヨンオッ)は自由美術協会に所属しながら美協に参加し大阪支部の部長を勤めた。

宋英玉の作品は在日コリアンの苦しみを一貫して描いている。

三面鏡

3面鏡という題の絵ですが、長引く祖国の分断の中で閉塞し分裂する画家の思いがこの作品に叫びのように満ちている。

 女魔術師が平和の象徴であるハトを出すこの絵にも真の救いは感じられない。植民地、戦争、分断という20世紀コリアの歴史を静かに耐えながら見つめ続け生き抜いた画家で晩年はたいへん不遇であった。唯一の救いは彼の作品の多くがハジョンウン氏によって母国の美術館に寄贈された事です。


 金昌徳(キンチャンドッ)は1910年に生まれ長い間文芸同美術部長を勤めた総連系の代表的な画家です。戦中から高橋進の名前で二科展に出品し、戦後、行動美術の発足からそこに参加した。

「貧しい生活」

在日の民衆の生活を描いた「貧しい生活」には地味だが重厚なリアリテイーが感じられしみじみとした味わいがある。

「ベトナム」行動展出品
「6.30C」
※アルン展・シンポジウム関連参考作品
 

今回展示された「6.30C」(アルン展・シンポジウム関連参考作品)は妻の死と家族の嘆きを描いた自伝的作品です。白い独特のマチエールが朝鮮の陶磁器のように悲しみと愛しみを感じさせます。
行動展に出品した多くの作品は決して大きな声ではないが時代や状況に流されない人間的な言葉でペーソスやユーモアを交えながら静かに淡々と語り掛けてくるような作品ばかりです。

 72年に脳梗塞で倒れる前の作品です。青い空の下で破れた傘を差した老人が二人立っている。それだけで何か強烈に金昌徳という在日コリアンの姿が、存在感を持って見えてくるようです。彼の家にはいつも朝鮮の若く貧しい芸術家が入れ替わり居候をしていたそうです。彼は生前一度の個展も開かなかった。これらの作品は82年に死んだ後初めて倉庫から出された物です。在日の美術家にはこのように埋もれたままの作家が実に多いのです。


白玲(ペクリョン)は武蔵野美術大学を出て若い頃はシュールレアリスムをやっていたのですが、若い頃の作品は散逸して見つかっていません。

文芸同美術部の中で理論や批評の中心だった白玲は社会主義リアリズムの創作方法論で自己変革をしていく。

アルン展・
シンポジウム参考作品

様式的には折衷の感じが否めないが、時間が止まってしまったような独特の静謐感は以降のリアリズム作品の中にも強く感じられる。しかし一方的なリアリズム論議の中で個性的な画家の資質が深められず、アンバランスになっていくような悲劇性も後期の作品からは感じられるのです。


 郭仁植(カッ・ギンシッ)に付いてはここでことさら述べるまでもありませんが韓国系の前衛美術家です。

 独自の実験的な作品を戦後から発表し李ウファン等の“もの派”の先駆的な地位 を占めると同時に韓国的なモノトーンの平面作品をえがく。韓国では単色派といわれるミニマル系平面 作家の中心的存在の一人と評されている。ガラスや金属、石などの素材に最小限の手を加え、ものと人間の関係、意味に執着し追求した。

アルン展・シンポジウム参考作品

 今日紹介した総連系作家達と郭仁植、ホングソンなど韓国系の作家が1961年銀座の村松画廊で連立展を開いています。その頃はひたすらガラスを割る仕事をしていました。連立展は3度続いたがその理念は今日のアルン展に繋がる物です。


 最後に権鎮圭(コン・ジンギュ)という彫刻家を紹介します。権鎮圭は解放後、李快大の成北絵画研究所に通 いそこには許勲がいました。かれが日本に滞在したのは1947年から59年韓国に帰るまでの12年間に過ぎませんが60年北に帰った曹良奎と同じように日本に滞在した短い時間が制作に決定的な意味を持った作家です。日本に渡り武蔵野美術大学で彫刻をやります。学生時代から二科に出品し二科賞を得て学生の時に二科会員になっています。

自刻像

 その頃東京で共同生活をした許勲は、権の口癖は祖国に帰って故郷の山に磨崖仏をやりたい、大きなモニュメントをやりたいということだった。李快大もそうだし許勲や多くの在日画家が民族群像やモニュメントにこだわったのは解放された若い美術家達の自然の要求だったのでしょう。日本で結婚もしたが故郷の母親が危篤だと聞いて一人で韓国に帰ります。彼は韓国で制作を続けるのですがあまり認められず不遇の中で1973年に自殺をします。

 モニュメントを作るため出来る限り天井をたかくしてつくったアトリエだったがついに注文は来ませんでした。ただ68年に東京の日本橋画廊での個展が非常に好評で読売新聞にも大きく報道され国立近代美術館がテラコッタの作品を2点購入している。武蔵野美術大学から講師の話も出ましたが断ったそうです。日本での成功も祖国では黙殺されたのです。

 韓国での晩年の彼のレリーフ作品です。冷めてしまった絶望感のようなものが漂っている。今では評価が高まり韓国の代表的な近代彫刻家に数えられていますが、孤独の中で死んだ権鎮圭も曹良奎も20世紀コリア美術の負の側面 というか、何か象徴的な生き方でした。もちろん北に帰った表世鐘や南にいったピョン・シジのように一応の成功をした美術家達もたくさんいます。権鎮圭の作品は今回展示できませんでしたが日本にはかなりの作品が残っているようです。権鎮圭だけではなく今まで日本で埋もれてきたコリアン美術家達の作品を検証し同胞達や日本の人たちに見てもらい研究を重ねる事がアルン展のもう一つの大きな使命だと思っています。



 
 今回のアルン展はまだ非常に若い展覧会です。しかし50年代からの、作品をともに並べる事によって私も含めた在日2世、3世に新しい座標を示す事になったと思います。今世記コリア美術の最大のテーマはやはり民族だと思っています。具象にしろ抽象にしろ多かれ少なかれ、失いかけた民族のアイデンティティの確立がその底辺に流れていてその強い思い込みがいつも出発のローギヤとなっている。在日には特にその傾向が強い。そこから21世紀に向けて真に人間的で国際的な美術が生まれてくれば良いと思っています。
 

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