一年ほど前のある夜中、母とただ二人でぬくまるオンドル部屋に寝ていたぼくも、赤狩りの対象として十人近い武装警官に家の周囲をとりかこまれていた。敵の猫なで声でとっさに眼を覚ました瞬間、ぼくは次の行動入っていた。台所の裏口から奇跡的に身をかわした直後、彼らはドロ靴のまま二階にあるぼくのアトリエに上り込んでいった。
脱出に成功したぼくは、その足で山を越えまた越えて郷里晋州からそう遠くない島にかくれ場を求めた。母方の親戚 がいたからである。
ぼくがその島に逃避するまではその島にはあまり赤狩りが厳しくなかった。しかし、間もなく、この島にもいろいろと事件が重なり追求の手が日増しにこわばってきた。
この島に滞在する約四ヶ月の間、ぼくが住まう寝ぐらは、牛小屋の上の天井裏で敷かれた万年床であり、真夜中農家の庭を散歩することが日課とし続けられた。
寝床の下の方で牛がモーと泣いたり、角でぼくの背中をつっついたりすることが唯一のなぐさめであったろうか?ぼくの画に周期的に登場する「牛」を題材にした画は、この時に観察したぼくの牛へのイメージでもあろう。
約四ヶ月の後、政治情勢は多少やわらぎ、きびしい弾圧のたずなはゆるめられた。それは第二次大戦後、三十八度線を境に南北の二つに分割されてしまつた二つの朝鮮を、統一した民主主義国家として独立させる目的で米ソ共同委員会が京城で開かれ、これが開催されている期間は弾圧の手がゆるむのがおきまりであった。それというのは、一九四五年八月十五日、長い日本の植民地支配が終末を迎えた解放の瞬間、支配者の手先として奉仕した彼らに対する民衆の手厳しかつた追求を、いま再び、あらたな主人公、米占領軍の手先として動く彼らは身にしみて知っている。状況変転の瞬間における恐怖を忘れ去ることができないで、情勢変化のきざしがみえたときにはきまって態度が変わってくるのであった。あるいは弾圧しないという約束が共同委員会で話されていたのかもしれないが、その辺の事情はよく知らない。
弾圧のゆるんだ隙間をぬって、船便でとにかく釜山に出た。そして解放された気持で釜山の街をふらついていた。逃避の場としては、田舎より人間の群が雑踏する大都会のほうが潜伏条件としてずつと有利であつた。
釜山の街で師範学校時代の同僚に合い、彼の世話で土城国民学校という五十人近い教師の仲間にもぐり込むことができた。そして再び、教員生活に戻った。まだ、学校内は治外法権的システムが、民主主義国家を偽装する手前、名目だけにしろ残つていた。
約半年の間、殆ど学校から外に出ることを避け、毎日デッサンの勉強に励んでいた。
ある朝、早めに眼をさましたぼくは、いつもの習慣で校庭をひとまわりみわたして、そこに見馴れない小さな旗が国旗掲揚台の旗ざおに威勢よくなびいてるのを発見した。一九四八年八月、うわべは大韓民国建国祝典にかざられているその同じ南朝鮮をも含めて南北朝鮮全土に、われわれ朝鮮人自身の最高人民会議を成立させる統一選挙が実行された。そして非合法下のうちに南朝鮮全土にわたる地下選挙が実施され、実に投票率七十七%の圧倒的支持によつて近代朝鮮史が初めて経験する自主独立を内外に宣言する共和国誕生の日であった。
その二、三日前、郷里で同じく党活動に従事していた仲間であり、同じく釜山に逃げてき、新しい任務に従事しているB君と偶然出会ったとき、そのことを聞かされていた。
旗を見上げたとき、これが新しい、われわれ朝鮮人民が今後末長く見守っていくに価する朝鮮人民の象徴としての漠然たる親近感と、同時に、あざやかな危機感がぼくを襲った。わずかばかりの荷物をまとめて校門をあとにしたのが、いま寝ころんでいる未知の島、ここ鷹島の山のてっぺんに一気にぼくを運んでしまった原因でもある。
明方、仲間と一緒に芋を掘りおこしておなかをこしらえ、これという目的意識ももたずに次の行動に移つた。じつと同じ場所にいること自体がなんとなくやり切れなかったからである。実はその時まで、ぼくはこの島が対馬なのか、あるいは朝鮮沿岸の島に逆戻りされているのか正確には判断しきれていなかつた。
道路をつたつて歩き出して間もなく、早朝、仕事に出かけるおばあさんに出会い一同緊張した。しかし意外にも相手から「おはようございます」と何気ないアイサツを日本語で投げられた時、初めて、ここは日本だという確信をえた。あまり広くない島の道を歩き出してかなり時間がたつていた。すでに朝の太陽はぼくら仲間の後方から大きな影を投げかける時間になつていたが、ただ歩き続けていた。人にも出会わず明るい道路を無意識に歩いていたぼくにやり切れない不安感が襲った。身をさらされている危機感であった。仲間からはずれて、一人山道の横丁にそれた。木の影に入るだけでも一時の不安から遠ざかれるような気の安まる思いがしたからである。
海辺に出ると六十くらいのお爺さんが船直しの仕事をしていた。「お爺さん」と声をかけ、続けさまに、今朝密航してきたことを伝えて援助を求めたけれど、相手はとんちゃくしなかつた。そのかわり向かい側の山の中腹にある一軒家を指差しながら、あそこなら世話をしてくれるかもしれないと親切に教えてくれた。
その家は日本人老夫婦がショウチュウ造りに忙しかつた。あとで知つたのだが、ショウチュウを造つて対岸の陸地におろしているらしかつた。前と同じことをくり返して援助を頼んだ。ところが息子が帰つてみなければなんとも言えないからと息子の帰るまで待たせてもらつた。
三十前後の戦中派らしい青年が間もなく帰ってき、ぼくを引きうけることを約束してくれた。
その日はとりあえず、うしろの竹やぶのなかに身をかくすように指示され、その通 りにした。夜七時頃迎えにくることになっていたが、夜中の一時頃までかれはこなかつた。この九州一帯には密航者を摘発するための自警団の組織があって、彼もその日中密航者捜索のためかり出されて山狩を終えて帰つてきたところであつた。そして七十人近い仲間の大部分は捕えられた。
ひるまは山に逃げ、夜は彼のところでとまりながら、四日後、赤飯まで炊いてもらつたりして夜の九時頃、小さな和船につみ込まれ、彼がそれをこいで陸地へ向つた。
戦争中のことをかれは艫をこぎながら語るのであつた。戦争の無意味さ、人間はみな民族の差をのりこえて平和に仲よく暮らしていくことを乞い願つていること、青年それも真理を求めて止まないものは美しく尊いこと、など。日本、朝鮮の垣根をはずして、民衆の側として偽政者の政策遂行の道具としてこき使われ、なんの保証も与えられず復員した一兵卒の、国家と戦争、人間に対する鋭い観察が今でもぼくの共感を強くつないで離さない。
民衆の心、それもほんとうに与えられたワクに疑問を抱き出した民衆の側の心は、共通 した連帯意識の上に堅く結びついていきていることを、これほど実感したことはなかつたし、日本を去ろうとするぼくの脳裡に深くきざみこまれておそらく忘れ去る日はないであろう。
無事に、目ざす東京深川枝川町の朝鮮人部落にたどりついた。その日は学校の運動会か何かの日で、校舎の壁に大きくはりつけてあつた朝鮮民主主義人民共和国の旗がぼくをおののかせた。釜山の校庭にかかつた小さな旗がきっかけで、異郷の地日本に逃げこんできたぼくの眼前に、それの何倍も大きい旗が平然とかかげられていることの意味を解釈するのに混乱した。状況が変わつたのだ。ここは日本である、まさしく日本の戦後のある瞬間にいまたつているのである。一九四八年十月二十三日の夜十時ぼくの満十九才のときである。
画を描くことの意味を確かなものにしていきたいというぼくのささやかな願いが、思想的バックボーンも準備せずに南朝鮮の社会、政治情勢のなかで、しやにむに、政治行動へと走らせたが、それを客体化する論理も、革命のなかにおける厳しい苛酷な状況に耐えていく信念と意志、その信念を支えるべく明確な世界観も確立されぬ
まま、ヒロイックな青年のあこがれから、現実参加へと移り、そうであったために挫折のにがい経験を味わわねばならなかつた。ぼくの内部にはもう二度と自己を美化したり、生半可な革命的ヒロイズムの中に身をおくまいと決意したのであつた。
第二次大戦の戦災のあとが東京の至るところに生々しく残つていた。焼きただれた東京駅がぼくは好きであつた。なぜなら、ぼくの内側もやはり焼けこげて寒空に残骸をさらけだしているよな思いにおいて共通
しているように思えたからだ。大東亜共栄圏の夢想を抱き、幾多の人間がこの東京駅のホームからのり込んで戦場へ狩り出され、そして消えていつたことだろう。そのはかなき日本帝国主義のヒロイックな姿勢の末路が、いまぼくの眼前に焼けただれた赤煉瓦をさらけ出している東京駅の建物である。 これに共感するぼくの心にもそれと類似した地点があったのではないか?
戦後日本の民主主義運動は活発に展開されているようにみえた。日本共産党の代議士が国会に三十五の議席を獲得した時期である。私の住む枝川町の朝鮮人部落にもその波は激しくおしよせ、民主主義国の小さいひな型が作られているようにみえたし、ぼくがそこに住みついて間もなく党員募集の用紙を何枚も、もち歩いている党員にもぶつかつた。深いつまずきへの傷跡になやまされ続けているぼくの小さい世界の内側には、なんの縁もゆかりもないものとしてしか映らなかった。これが革命への党、共産党のあるべき姿であるべきではないと考えた。革命のきびしさ、それに真にかけようとするすべてが準備されなくとも、少なくともそれを自分の最小限生きる問題と密接に結びつけてみようとしないムード的革命家が氾濫しているように映つた。
ぼくはそういう形での入党への誘いをきつぱりと拒否し、挫折の根源をさぐつた上で、ぼく自身の思想への出発を準備しなければならないと強く自覚したからである。
短い期間ではあったが南朝鮮でのさまざまな経験、なかんずく朝鮮の古い党員たちの民衆に対する献身性と人間的魅力かそれはぼくらをとらえて離さないものがあつた。土地を売り家財を投げ出して革命への意議に燃えていた。いまでもぼくのなかに思想を抱く人間の高貴な型として彼らの風貌が美しいイメージでよみがえってくる。ぼくの周囲におけるいわゆる運動家をみつめる尺度をぼくはここにおいて判断していくことにした。
安易な形で当時のぼくら朝鮮人組織に入るまいと決心したぼくの意志とは別 に、まわりの目は冷たかつた。それと同時に生活の方便も皆目見当がつかめぬ
まま、表現力を身につける必要から夢中になつてデッサンの勉強を始めた。多少の空腹は我慢できた。
思想的挫折感の傷痕にさいなまれていた当時のぼくは、ただ絵に自己の感情を定着することを渇望した。
中国の版画を古本屋で集めたり、土方定一氏がアトリエに紹介した中国の抗戦画家蒋兆和の画にふれたのも東京について間もない頃のことである。ケーテコルビッツの画集を探し回ったりした。そして生まれて初めて労働による賃金の報酬をうる喜びも味わった。主に石川島造船所と、近所の倉庫に同胞人夫にまじつて働いた。
ぼくにとつて労働は楽でなかつた。重いものを肩にかついだ時、その重圧感から逃れることができなかつた。骨を刻まれるような苦痛を労働のあい間じゅう意識し、緊張した神経で耐えていかねばならなかつた。人間が労働にかかわりあうさまざまな意味を、痛切に実感しえたのはこの時であつた。それでも普通
の人足の半分の量の仕事もはかどらず、彼らから白い眼で見おろされる二重の苦しみも味わつた。それでもそこで働かねば、パンを得る方法はなかつた。三日働いた収入であとの四日を研究所へと通
いつめた。ただ自分が感じとつたものを表現におきかえうる能力がほしかつた。 そして間もなく朝鮮戦争がおこつた。残虐行為がなされ、祖国の地形は変形され多くの同胞が死んでいくのを日本の地でみまもらねばならぬ
、はがゆさだつた。
そして長い間迷い続けていた表現の意味をようやく見出すことができた。
まずぼく自身が実感する祖国における危機感を日本の大衆に訴えねばならないという強い気持であつた。リアリズムがどうの、表現様式がどうのと考える必要はなかつた。
ただ表現することであつた。なんら既成の絵画的イメージにとらえられることなしに強く感じ、そして自分から離すことのできないものをキャンバスに定着することであつた。これが日本での最初の展覧会出品作である「朝鮮に平和を!」という三十号の油画作品であり、この時、枝川町朝鮮人部落を描いた二十枚近くのデッサンも同時に出品した。
そして半年ののちには休戦交渉が成立し戦争は終わつた。侵略者の泥靴にふみにじられ、無慚に荒らされた祖国へのやみがたい郷愁がますます強くぼくを動かし始めていた。
ぼくをはぐくんでくれた美しき自然と色につつまれた祖国朝鮮の山河を強くイメージに浮かばせながら、同時に、画面 に定着される存在が、えがく側の思想や感情をリアルにつつみうる時点をも夢想しながら、ぼく自身の表現行為とそれにかかわりあう思想との意味を確かめねばならないと言う観点にたつて「牧童」の製作にかかつた。
祖国朝鮮における危機意識から出発したぼくと絵画との関係も、自己の存在する場と抱く観念の質との関係において、表現としてのリアリズムを目ざさねばならぬ
段階へとつき進んだ。自己の内面を外側との関係において見極めねばならぬ地点に立足された。そして日本の地で生活する以上、日常的に体験するその状況の様々な意味を理念的にも感覚的にもまともに受け止めねばならないと考えた。
朝鮮戦争の特需景気による独占資本の復活はめざましく、それは一方にはげしい政治的季節としての日本の民主主義運動をゆさぶつた。火炎びん時代ー何年か前にぼくが朝鮮でつまずいた政治的情況がふたたび、ここ日本の地を襲つているような感じがした。
そして進歩的だと言われる若い画家達は、内灘へ、あるいは山村工作隊へと入つていつたが、ぼくにはあまり興味がなかつた。作家の現実参加の意味を、作家が定着しうる絵画的意識の問題とかみ合わせることなしに、単なる参加は何ものも生み出さないことは朝鮮での経験でいやというほど思い知らされていたからである。具体的感性構造を変革することなしには、絵画としての新しいリアリズムの途は開けてこないからである。リアリズムとは現実を写
しとる単なる方便ではないし、ましてや、様式上のパタンでは勿論ない。何をいかにかくかの前に、描く側の対象認識に到着する思想、感情による作家自身の感性構造を変革させねばならないと強く感じたのは、短い期間ではあつたが肉体労働を経験したときのあの労働とぼく自身の肉体の関係がもたらす断絶感からも受けとめえた、ぼく自身の一つの信念である。
芸術家にとつて表現されるべき対象の困難さを明確に意識しえぬことは不幸なことである。困難さを克服しようとする意識、これは変革或いは革命への意識に通
ずると思われる。
社会状況における一般的自己疎外感覚は、まさしく現実の内部に密着しえない主体の弱さから来るもので、本質的な自己疎外への意識は逆に、現実の内部状況に密着し緊密なかかわりあいをもとうとするとき意識化され、これをのりこえようとする時、変革のエネルギーとしての表現行為が成立するように思う。「牧童」から倉庫シリーズに入るまで、ぼくはそう言う屈折をいろいろと経験したような気がするし、この関係は表現行為を意図するものには常に切り捨てられない表現のモメントでもある。
当時の進歩的だと言われたいわゆる左翼美術家たちからかなり冷たい視線でみられながらも、ぼくはぼくなりの表現に対する信念をかえる必要をもうとう認めなかつた。「凶作」(一九五三)「目立て」(一九五三)「花をもつ男」「土地を奪われる」などを描き続けながら、ぼくは、ぼくなりの創作論理に基づくリアリズムの道を歩んでみなければならないと確信した。それは独占資本主義的社会体制そのものを概念的にでなしに、体当たり的分析を通
じて、ぼく自身の社会観ならびに思想の論理化を、より一層明確にする必要に迫られていた。
一方スターリン批判、六全協批判とうち続く政治状況の変転と同時にいわゆる進歩的美術家の動揺は激しくおこり、リアリズムから一夜にしてアンフオルメル絵画への転落が大勢の仲間に始まつていた。政治至上主義から芸術至上主義へとバトンが渡されていく季節でもあつた。
そして「倉庫」のイメージの模索を終え「密閉させる倉庫」の製作に入つた。ぼくが何年も住んでき、肉体に刻みこまれた情景、そして何にもまして資本主義機構の象徴としての倉庫に対する漠然たるイメージ。生産の現場でなく生産物の収穫過程における労働力のきびしい吸収、ここにみられる機構と労働力の不条理な分離などが、私の主な課題として試みられた。朝鮮戦争での特需ブームによつて次第に自己回復をなしとげつつあつた独占資本の活気に対する下層労働者の苛酷な現実情況との対比関係、そこに資本主義社会体制での労働の本質と、労働者の疎外状況を明示したかつた。人間が自己の労働に誇りと尊厳をもち得ず、ただ最低生きるためにのみ働かざるをえない社会機構、これこそ、ぼくが経験し、まわりの労働者から受けとめたいつわりのない実感である。「密閉させる倉庫」のあと人足と倉庫の製作に入つた。「密閉させる倉庫」においてはげしく求められた対象認識の観念と感覚の一致が、ここではより一層の観念の肉体化に伴う対象の明確な物資感へと移行した、メカニズムと人間との対立関係ならびに違和感などが主要課題であつた。そして「倉庫」において倉庫の本質がもたらすグロテスクな様相を、ぼく自身のイメージによつて自然の情景と断絶した形のなかで、もう一度自然的情景として再現したかつた。「倉庫」一連の製作を終り、その過程を整理するなかで、ぼくは、われわれがその上を歩き、それでいてそこにあまり物への意識を働かせずに見すごしている「マンホール」と、そこに働く下水人夫との関係において、資本主義社会の暗黒面
の象徴ならびに現在の危機的状況における人間と機構との関係の象徴として表現してみたかつた。倉庫の立面 からマンホールの平面へ、直線から曲線への連鎖的展開を通して、対象をみつめる観念自体がもつと個別
化され、肉体化され、人間的情感の組織構成を通して心理的にみる側の情感の力動感に働きかけ、状況のなかに息づいている下層労働者の暗さと同時に変革へのイメージを訴える方向として画面
全体のなかにもり込められた、ぼく自身との現実的実感を再構成していく方向として選んだ。
状況下におかれている人間とその打破への意志と方向において、変革へのヴイジョンを、いや応なしにみる側に食い込ませうる画面 の組織をめざそうとする段階になつて初めて、ぼく自身がそこにおかれている人々のもつ現実の矛盾を、自己の社会的、現実的矛盾と同時点におくことができ、センチメンタルな共感にとどまらず対象物を冷酷な眼で凝視しうるところまでやつとたどりついた。
具体的対象物の認識を具体的的感情による理念の論理構造に基づいてそれを感性講造に高めうる時、現実認識としてのリアリズムが擁立すると思えるようになつた。
絵画における色、形、構図、量感、このどれもが、作家の具体的現実的認識に基づいていて統一され、緊密に関係づけられた時、絵画としてのリアリティは成立しうるものと思える。一般
的な色でなしに、自分の思想と感情がとらえた、対象自体のもつている固有の色彩 を、作者の対象把握への強力なイメージによつて選択し的確なバルールにおきかえたとき、色彩
による表現の意味が成立し、量感においても一般的ヴォリュームでなしに自己の抱く現実認識の背景において止揚したヴォリューム意識こそ思想感情の表現としての量
感の意味が成立すると思う。近代的自我主体における量感意識のもつともまともな形のいい例はセザンヌにおける量 の意識のあり方も暗示的だと思える。
未だいろいろと解決せねばならぬ、数々の問題をはらんだまま祖国朝鮮に帰ろうとしている。ここで一応三十年近く日常的にかかわりあつた日本との関係は切れる。いま日本を去るに当り、ぼくの記憶は遠く、少年時代の記憶にかえつていく。郷里の街頭を数多くの人々が旗行列に加わつていた。昭和十二、三年頃、日本が中国に侵略し、南京を陥れた祝典を僕らに日本の植民地だつた朝鮮人が示威しなければならぬ
情景であり、十才に満たない少年の眼で目撃したのが、ぼくが外部とのかかわりあいをもつた最初の印象である。
しかし、歴史はまたくり返されるだろうか? 戦争のにがい教訓を忘れ、いままた戦争を準備しようとする、帝国主義陣営が頑迷にわれわれの前にまたもや立ちはだかろうとしている。アジア軍事同盟が進められ、帰国の喜びに湧く在日朝鮮人の帰国を妨害せんとする勢力があり、人道主義のたてまえから出発した帰国協定を、韓国との政治的かけひきに利用しようとたくらむ政治家もいる。朝鮮人が自己の祖国に帰りたい時に帰らないようにしようとする方向こそ、戦争への道に民衆を引き込もうとする道でもある。
芸術家が政治的、社会的状況に無関心な状態で芸術の意味がよりよく成立するという意識の破壊こそ、新しい芸術への道であり、それを具体的実感に基づいてつみ重ねていかねばならないと確信する、いまも、何年の後も。