曹良奎は昭和三十五年の秋、朝鮮へ帰った。その前後の二、三年は、まず在日朝鮮
人の北鮮帰還問題というのが大もめにもめ、それが赤十字社を介して実現することに
なり、新潟から船が出るようになって、その何回目か、何十回目かの帰還船で帰って
いったのだった.もっとも帰るとは言っても、曹さんは南鮮生まれのはずである。た
だ、彼は戦後李承晩政権の頃、逃げ出して、 密航して日本に来たのだったから、帰
りたくても南鮮へは帰れなっかったろうし、また南鮮では帰る気もなかった にちが
いない。
曹さんが帰ることになったとき、私は彼に、記念に作品を一点頒けてもらえないか
と言った。それもあまり大きなのでは置き場に困る、なるべく小さいのがいい、そう
言うと、曹さんは、十五号の「倉庫」がある、それが一番小さいと言い、それではと、
話はそれに決まった。
ところがそのすぐ後で、名前ももう忘れたが、その頃始終画廊へ出入りしていた、
美術の新聞のようなものをやっている男が私のところへ来て、曹良奎が朝鮮へ帰るこ
とになった、ついては旅費作りの意味もあり、彼の作品を一点買ってやってくれない
かと言った。
そのことなら、もう私と曹さんとの間で、直接話ができている。ただ、値段のこと
は、ちょっと話しにくいことだけに、私も切り出しそびれ、曹さんも何も言わず、ま
だ決っていなかった。この男を通 して絵を買うことにすれば、その値段のことも事
務的に決められる。もちろんこの男が何パーセントかのマージンをとるだろうが、そ
れでこの、売れもしない新聞で苦労している男がいくらかでも潤うのならそれも結構
だ。そう思ったので、私はその男に、曹さんから貰うことになっている「倉庫」の絵
のことを話し、品物と金の受け渡しを彼に頼んだ。
二、三日してその男が絵を持って来、私は彼に金を払った。ところが数日後曹さんに
会ってみると、金はまだ曹さんの手に渡っていない。そして、それっきり、いつまで
待ってもその男は、曹さんのところへも、私のところへも姿を見せなかった。
曹さんは肚を立て、私も肚が立った。金を持ち逃げされたというだけではない。
折も折、やがて朝鮮へ帰ってしまう曹さんのその発ち際にこんなことをして、曹さん
に不愉快な思い出を残させるそ奴に、同じ日本人として、私は肚が立つやら情けない
やらだったがどうしようもない。
私は曹さんにもういちど金を払おうと言ったが、曹さんは受け取るわけには行かな
いと言う。そんなことで二, 三度押し問答をしたあげく、それではもう一点作品を買
おうということになり、曹さんが担ぎこんできたのがこの「マンホール B」である。
もう出発も間近に迫った頃のことで、曹さんは枝川町の自宅でいちど荷作りしてあっ
たのを解いて持ってきたのであった。
いまになってみると、あのインチキな新聞屋のお蔭で「マンホール」の一点が私の
手許に、大きく言えば日本に残ることになったので、あまり悪くも言えない。そのろ
くでなし野郎を、その後、品川駅の階段でいちど、銀座松坂屋の横でいちど、いずれ
も雑沓の中で見かけたが、相も変わらずしおたれた貧相なその姿に、私は声を掛けず
逃してやった。
「マンホール B」のそのBでもわかるとおり、これはマンホールの連作のうちの
一枚である。「マンホール」 には一九五八年から六〇年にかけて、AからEまで、
作品が5点ある。そのうちではCが代表的なものであろう。
この「マンホール C」を私は日本に残しておいてもらいたいと思い、大江健三郎
氏に買ってもらうことを思いついた。曹さんも、大江さんのような人が持ってくれる
ならと乗気で、私は、その頃大江さんのところへ通 っていた新潮社のK末さんから
も話してもらい、私も電話を掛けたり、手紙を書いたりしたが、これは駄 目だった 。
考えてみればこんな百号もある大作の、それもマンホールの中から坊主頭の男の首が
のぞいているぎょっとするような絵では、大江さんも困っただろう。大江さんはとも
かく、大江夫人が怖気をふるったにちがいない。
そのうちに、その絵は大阪の朝鮮人の事業家が買ったということで、私が「マンホー
ル B」を買った頃には、作品は大阪へ行っていた。そして、どこか天理教の説教所
のようなところに掛っているという話を聞いたが、その後また東京へ送り返され、更
にまた曹さんが買い戻して、朝鮮へ送ったということである。
曹さんの作品では、やはり大作の「密閉せる倉庫」が、瀧口修造氏の口ききで近代
美術館に入った。ほかには絵具屋のクサカベに、初期の作品が一,二点あるらしい。
曹さんは帰るときだいぶん絵具を仕入れて行ったが、そのときの絵具代は、その絵で
支払ったのかもしれない。
私は、曹さんとはわりに親しかった。昔から、私はふしぎと朝鮮人のいい友人に恵
まれている。戦争中、日大出の李君という青年と、北京から保定、石家荘、太源と、
数年に亙って起居を共にしながら、いっしょに仕事をして歩いた。もうひとり、これ
は太源に落ち着いてからだが、柳君という青年が加わった。この青年は満州生れで、
間島ソビエートが潰された時、両親に連れられて、黒竜江を渡ってソ連に逃れ、ソ連
で成長した。モスコーのクウトベエ(植民地共産大学)で教育を受けた後、延安に派
遣され、更に東北(満州)の工作に赴く途中、日本軍の捕虜になって私のところへ送
られて来たのだったが、私とはよく気が合って、いい相棒であった。いまは 二人共、
朝鮮民主主義人民共和国の要人になっているらしい。
この二人は、経歴は全く対蹠的だが、議論好きという点では共通 していた。普段、
ひとりは物静かな、ひとりは明朗闊達な、しかしどちらもおとなしい人柄だったが、
議論になると眼の色が変わってくる。私はしばしばこの二人に喰い下げられて閉口し
たが、もしかすると、これはその二人だけでなく、朝鮮人全体に共通 する特性なの
かもしれない。というのは、曹さんも、画家には珍しく議論好きだったからである。
曹さんの話は、絵の話でも、いつも独占資本主義社会体制から話が始まる。この議
論好きが災いして、同じ自由美術の中でも、曹さんは案外敵が多かったようだし、私
もときにはうんざりすることもあったが、しかしそれでも、私は曹さんのそういう絵
の話を聞くのが好きであった。毎日画廊で客と話すことといえば、誰それは号いくら
だとか、いや高くなったものだとか、ああ描きすぎては値崩れするのではないかとか、
抽象を買うのなら誰 を買っておいたらいいとか、そんなことばかりで、それも客は
一人だけではない。 そういうところへ曹さんがやってきて、真向上段から原則論を
ぶちはじめると、またかと思いながらも久しぶりに絵の話を聞くようで、聞いていて
気持がよかった。絵というものはそういうものだったと、忘れていただいじなことを
思い出させられたような気がするのである。
曹さんの語彙の豊富さにも、私はいつも感心させられた。曹さんはずっと日本で暮
らしていた朝鮮人ではない。戦後も三年ほど経ってから李承晩の南鮮を逃げだして日
本へ来たのだが、それにしては実に日本語が巧かった。 日本の領土だった頃の朝鮮
では、学校でも日本語を使わせたのかもしれないが、それにしてもである。ことに絵
の話にでもなると、普通の日本人の知らないような言葉を豊富に、的確に使った。曹
さんと話していて、彼が何か言いたいことを十分に言えないでいるとか、私の言葉の
ニュアンスが彼に通 じないとか感じたことはいちどもない。
帰ることが決まってからの曹さんは、以前にも増して、しげしげと画廊へ遊びにき
た。四つか五つくらいの可愛い男の児をつれてくることもあった。 画廊を閉めてか
ら、二人で近くの朝鮮料理屋へ飯を食いに行ったことも何度かある。
そういうある晩、曹さんは私に、彼の南鮮脱出記とでも言える一種の身の上ばなし
をして聞かせた。その話は実に面 白くて、私はぜひなにかに書け書けと言い、曹さ
んはたしか、それを「藝術新潮」に書いたはずだ。 そのとき聞いた話で私がいま憶
えているのは、例えば、警察に踏み込まれた場合、穴をあけてそこから逃げられるよ
うに塀の煉瓦の継ぎ目を弛めておいたのに、いざ寝込みを襲われたその夜は寒夜で、
外しておいた煉瓦が凍りついてしまってビクともせず、パンツ一枚の丸裸で氷の壁み
たいな塀に攀じ上らなければならなかったとか、乗り合いの密航船で竹島に脱出した
ものの、追いかけてきた韓国の警察に全員捕まってしまい、彼ひとり逃げて島の日本
人漁夫の家に隠れ、その漁師が手漕ぎの舟で、この文無しの密航少年を無料で佐世保
まで送り届けてくれたとか、そういう断片的なことだけであるが、曹さんの話の全体
は、朝鮮戦争前夜の南朝鮮の社会情勢を髣髴とさせるような、もうちょっと次元の高
い話で、あの時の ※「藝術新潮」をとっておけばよかったと思う。
※「芸術新潮」1960年11月号【マンホール画家・北朝鮮に帰るの記】
曹さんの日本語にも感心するが、更に、その油絵具を使いこなす技倆に至っては感
嘆のほかはない。曹さんが本格的に油絵を描きだしたのは、おそらく日本へ来てから
だろう。一時、武蔵野美大にも籍を置いていたらしが、 とにかく数年で「倉庫」や
「マンホール」の水準に達している。もしかすると曹さんの民族的な体質は、われわ
れ日本人よりも油絵に適しているのかも知れない。
「マンホール B」をときどきとり出して、見るたびにまず感心するのは、六十号
の大きな画面 の大部分を占める地面、それもただの地面を、よくもこれだけ描いた
ものだということである。こんなものは描けるものではない。下手をするとぬ らぬ
ら、ずるずるになってしまう。いわゆる絵具がつかない。ところが、この「マンホー
ル」の地面 は、実際のアスフアルトの地面のように堅固で、乾燥している。 画面
が全くキャンバスを感じさせない。よくある、絵がキャンバスに凭り掛ってやっと立っ
ていたり、キャンバスにすがりついていたりするのとはちがうのである。このマチエー
ルの見事さに、私はいつも恍惚とする。
私はまた、この絵を見るたびに、あの頃鶴岡政男が言っていた「事ではなく物を描
く」という言葉を思い出す。 その言葉を私は私なりに、人間とその状況を、心理的、
文学的に描くのではなく、視覚的に、純粋に絵画的に描くべきだと言う意味に解して
いるのだが、そのとおりだとすると、実際の仕事の上でその言葉を実現したのは、言
いだした鶴岡政男ではなくて、曹良奎ではなかったか、という気がするのである。曹
さんは、彼がよく口にしていた独占資本主義社会体制の重圧と、密閉された倉庫の壁
や、マンホールが暗い口をあけているアスフアルトの地面の物理的な圧力に取り換え
て見せてくれる。だが、まだそれだけでは曹さんが画家であることの証明にはならな
い。 曹さんが凡庸な絵かきとちがうのは、その圧力の感覚を完璧に物質化し得たと
ころにある。曹さんの絵かきとしての仕事の正念場もそこだったにちがいない。
それにしても、倉庫はまだしも、マンホールをモチーフとして掴んだとはなんとい
う奇抜な、人の意表に出た着想だろう。こんなものを描こうとは、誰も思ってもみな
かったにちがいない。ところで、私には昔、鳶職の友達が ひとりいて、その頃その
男から聞いたのだが、おなじ土方でも、朝鮮人の土方は土というものに対して、なに
か特殊の感覚と生来の能力を持っているようで、見たところゆっくり働いているよう
でも、日本人よりもずっとはかが行くというのである。 いまここで、その話を曹さ
んのマンホールに結びつけるのはこじつけに似るかもしれない。しかし、そうだと言
い切ることもできないのではあるまいか。
鳶職の話は、それはそれとして、いずれにしても、マンホールをモチーフに択ぶ曹
さんの美意識が、日本人の伝統的な美意識とどこか異質だということはまちがいない
だろう。 花鳥諷詠が躰のどこかにしみついているわれわ れとはちがうのである。
私はときどき、無性にこの「マンホール」が見たくなる。そして、見るたびに一種爽
快な感銘を受ける。日常の狭い視界から、広々とした視野の中へ出たような気がする
のである。
朝鮮へ帰った曹さんからは、その当座二、三度便りがあったが、私はついにいちど
も返辞を書かなかった。おかしな話だが、手紙がはるばる香港をまわって、北京経由
で行くのだと聞くと、そう聞いただけで億劫になってしまうのである。 そのうちに
曹さんからも来なくなった。
針生一郎氏とは最近まで文通があったらしい。いつか針生さんから、曹さんがチェ
コへ行っているという話を聞いた。文化使節のようなものだったかもしれない。その
とき、曹さんが送ってきたという近作のスライドを見せてもらったが、男や女が拳を
振り上げて米帝反対を叫んでいるような絵であった。 「曹さんやってますね」
と私は言ったが、心の裡では、やらされてるなと思った。曹さんの本音はわからない。
しかしどっちみち、あっちにおればこういう仕事をすることになるだろう。 私はやっ
ぱり曹さんに、「倉庫」から「マンホール」へと進んできた道を歩いてもらいたい。
「曹さんやっぱり帰らないで、日本にいたほうがよかったんじゃないかな」
とも私は言った。 私だけでなく、曹さんの話が出ると、いろんな人がそう言うのだっ
た。しかしこの頃、私はそうも思わなくなった。曹さんが日本にいたとしても、いま
の東京でどんな絵がかけるだろうと考えるからである。
いまはたいそう絵のよく売れる時代である。同時に美術運動というものが全くない
時代でもある。絵のよく売れる絵かきがいい絵かきで、売れない絵かきは駄 目な絵
かきだと、客がそう思うのならともかく、絵かきまでがそう思っているような時代で
ある。売れるような絵を描こうとして、誰も彼もが浮身をやつしている。曹さんのよ
うな絵かきはいなくなった。いられないのである。